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年間第4主日:イエスの言葉が群衆に「権威ある教え」として伝わったわけ

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年間第4主日(B年)の説教=マルコ1.21~28

2015年2月1日

message-eyecatch2大人にも子どもにも共通して言えることがあるように思います。それは、「初めて」何かに従事し、ある組織体に入り、自分の周囲に誰も知り合いがいない時、とても緊張するということです。あたかも、八方ふさがりになってしまい、固まってしまう人も、中には、いるのではないでしょうか。

こうした状況の中で、大人はどうにかくぐり抜けようとしますが、子どもは泣いたりしてしまいます。不安なのです。落着けないのです。安心できないのです。安心できる人、場所を探し始めます。これが「くぐり抜けようとする」子どもなりの動きです。

今日の福音を見ますと、イエスさまの宣教活動の幕開けとなるカファルナウムの会堂での出来事が紹介されています。イエスさまにしてみますと、「初めて」公の場に登場したわけです。それまでは、ナザレの田舎町で素朴な両親、ヨゼフとマリアと一緒に、ひっそりと暮らしている無名な存在でした。人々に期待されるような存在者ではなかったのです。

ところがどうでしょう。マルコは次のように書いています。「人々はその教えに驚いた。イエスが律法学者のようにではなく、権威あるものとして教えておられたからである」「これはどうしたことか。権威ある新しい教えだ」と。

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マルコはイエスさまと出会った感動をそのまま「権威ある者、教え」として伝えています。初めての人々を前にして臆することなく、堂々と確信に満ちた言動をなさいます。ビビることなど何もありません。安心感をもって語るのです。

わたしたちの時代の権威は、今まで権威ある者とされてきた親、教師、政治家、また、残念ながらも、教会も尊敬され、信頼されている権威が小さくなってきました。否、失ってしまっているといえないでしょうか。

たとえ立派なことばを語っても、「真実」に裏付けられていないと、人のこころに響くものがないのが通常です。ところが、公の場に初めて登場した「無名な人」イエスさまが語ると、民衆みなが感動し、「権威ある教え」として伝わったのです。イエスさまの中に、人間的なはったりや虚栄心、ごまかしを感じ取ることはできなかったのでしょう。

その語る言葉の力から、「メシア」の姿をイエスさまの中に感じ取っていたのではないでしょうか。それを「権威ある者」として表現しているのでは、・・?! 生きる確実な裏付けを神に、信仰に見出していきましょう。

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