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年間第5主日:ダメな自分に目覚めることが神の働きかけを容易にする

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2020年(A年)説教の年間テーマ=「応えていますか、いつも」

2020年(A年)説教の年間テーマ=「応えていますか、いつも」

年間第5主日(A年)の説教=マタイ5・13~16

2020年2月9日

「ネット犯罪」「ネット被害」等、否定的な表現が、報道関係のテレビ番組、新聞等で見受けられます。人の日常の生活が、時の流れとともに便利になり、より豊かになってくると、今までに経験しなかったマイナス要素も新たに、同時に出てくるものなんだなと感じております。これまでの歴史を振り返れば当然のこととはわかっていても、その渦中にいれば、普通に想定できることもどこかに置き忘れてしまうものなんですね。

大阪府のネット犯罪防止対策をめぐって

「『家出』検索スマホに警告」「未成年の犯罪被害防げ」という見出しで、ネット被害を防ごうと、大阪府が取り組みを始めるということです。(讀賣新聞大阪本社、2020年2月2日朝刊)

その内容というのは、インターネットで「家出」などの言葉を検索した人物のスマートフォンなどに、犯罪被害への注意などを呼びかける文言や、犯罪になるとの警告文を表示させる取り組みです。大阪府が来年度に実施するというものです。ネット利用者の嗜好に合わせた商品などを宣伝する「ターゲティング広告」を活用し、表示する文言を自動的に選択する仕組みです。18歳未満の未成年のネット被害を防ぐ目的で、全国でも珍しい試みのようです。

府内でスマホやパソコンからSNSや検索サイトを使って、「家出」や「援助交際」、金銭をもらってデートなどに付き合う「パパ活」といった言葉を検索した人物に対し、広告として注意喚起や警告の文言を表示するのです。表示される文言は、ターゲティング広告の仕組みによって、未成年が被害に遭う恐れがあると判断された場合は注意喚起、未成年を誘い出す側などと推測されると、警告が選ばれるという表示がなされることになっています。

警察庁によると、2018年にSNSを通じて犯罪に巻き込まれた未成年は1,811人にのぼっています。府は、ネット被害が増える夏休み前の導入を目指して、2月25日開会の府議会に提案する新年度予算案に、関連経費として120万円を盛り込んでいます。

情報過多で自分のダメさに気付きにくい?

わたしたち一人ひとりが置かれている環境は、善いも悪いも、いろんな情報によって取り囲まれています。そして、その中で生きる術を学び取る前に、また、情報の取捨選択をする前に、押し寄せてくるたくさんの情報に押し切られてしまっているのが現実ではないのでしょうか。

一方、わたしたちとしても、情報は多ければ多いほどがいいという発想で、ありったけの手段を講じて入手していることがあるような気がします。それによって、自らを見失っている人が増えているのではないかが危惧されます。その結果、自らをダメにし、腐敗への道のりをたどっていく人も増えているのでしょう。今の時代は「ダメ」になっていく自分に気づきにくいほどに、楽しいことが多いのです。

その楽しい思い出に、事柄に浸りきって生きている人には、他者からの進言、勧告など心に留まるはずもないのでしょうか?!

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イエスの今日の福音は、「あなたがたは地の塩、世の光である」と語りかけます。「あなたがた」と呼ばれた人にとって、この言葉はどのように響いているのでしょう。心に留めておきたいのは、「地の塩になれ、世の光になれ」とはおっしゃっていないということです。いわゆる、弟子たちの努力目標を示されたのではないのです。イエスに呼ばれた人は、すでに「地の塩であり、世の光である」のです。

イエスに関わることは塩の役割を担うこと

すなわち、イエスに関わることは、塩味の役割を担うことになるんだよということです。その役割は人間の努力で得られるものではなく、その時に適った、神から与えられる「塩味」なんだということです。だから、「地の塩になれ、世の光になれ」とは言われないのです。

いうまでもなく、塩の役割はいろいろあります。しかし、どの役割を見ても、自分がふさわしくその役割を担うことなど、到底考えらないと思ってしまいます。事実そうです。そして、光を輝かせるどころか、自らの深い闇の部分に先に気づいてしまいます。それによって、人を傷つけ、その心を踏みにじり、逆にその人の明るさ、輝きを奪ってしまいそうになってしまうのです。だからこそ、この世界を清め、この世を照らすことなど不可能なのです。わたしたちの力ではどうしようもありません。

「ダメな自分」に気づくその時、神は動く

そうです。こうした「わたし」に目覚めることが、「わたし」に対する神の働きかけを容易にする要因ではないでしょうか。わたしたちにできる備えというのは、いかに「今の自分」を自らが認めているのかということだけです。「変えられていく」ための準備です。神から与えられる「塩味」がしみ込みやすくなっていきます。

「塩」にしても「光」にしても、すでに与えられているものです。それらが、それぞれの力を発揮するために邪魔になるものを取り除けということです。そうすることによって、人々は「あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめる」ことができるようになります。これが本来の宣教ではないのでしょうか。わたしたちの行いが立派であるのは、神がそうしてくださっているからです。人が、イエスとのかかわりを生きようとするその時(信仰する)、塩味、光は与えられ、その力が発揮されるのです。

わたしたちは「ダメ」なままで生き続けるのではありません。「ダメ」な自分に気づくことで、もっと楽しい日々を享受できるようになっていきます。これが神の力であり、恵みの賜物です。

 

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