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主の奉献:イエスは神と人を結び合わせる接点。そのことを再確認したい

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2020年(A年)説教の年間テーマ=「応えていますか、いつも」

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主の奉献(A年)の福音=ルカ2・22~40

2020年2月2日

「J1の名伯楽がJ3に転身」という話題から

「G大阪の名伯楽 新天地」という見出しで、上野山信行さん(62歳)が紹介されています。(讀賣新聞大阪本社、2020年1月29日夕刊) サッカーJ1・G大阪でユースの初代監督を務めるなど、育成組織の発展に尽力された方です。その上野山さんが、J3・讃岐のゼネラルマネージャー(GM) に転身するというのです。これまで、多くの日本代表選手(宮本恒靖、稲本潤一等)を育てた名伯楽は、「讃岐をワンランク上のレベルに引き上げたい」と意気込んでいます。

自主性を重んじた指導法で多くの実績

現役時代はDFで、ヤンマー(現C大阪)で釜本邦茂さん(75歳)らとプレーしていました。引退後、釜本さんのサッカースクールで指導者の道を歩み始めたのです。当初はスパルタ指導でしたが、次第に「子どもでも、一人の人間として接すること」を心がけるようになったといいます。「頭ごなしに指示せず、どんなプレーをしたいのか、どうしてミスをするのかを自分で考えさせるようにした」のだそうです。

そのきっかけになったのが、長女の夜泣きだったといいます。上野山さんが抱いても泣き続けていたのが、妻があやすとすぐに眠った、というのです。奥さんに言われたそうです。「あなたが寝たいから、無理に寝かそうとしているけど、子どもは眠くなったら勝手に寝る。それまで我慢しないと」と言われたのです。サッカーを教える時も同じだと気付かされたのです。その後、自主性を重んじた指導法で多くの選手をトップチームに送り込みました。

選手の秘められた能力を引き出してこそ

「そろそろG大阪を次の世代に引き継いでいかないといけないのでは」と考えるようになった昨年、讃岐からのオファーを受けたのです。クラブを一から作ってほしいと求められ、心が動いたそうです。そして「サッカー界へのさいごの奉公をさせてもらおうと決めた」のでした。今、新たな挑戦に目を輝かせているのです。

指導者は選手を新段階に導く接点の役割

どのようなスポーツ界でも、コーチ、監督、マネージャーの位置づけは、ある無名の選手が有名な選手になっていく「橋渡し」的な存在者、または、運動能力向上への援助者としての存在なのではないんでしょうか。その選手の内側に秘められている能力を、引き出していく手伝いを喜びと感じる限り、華やかな表舞台には登場しなくても、その人の存在の重みは十分です。

このような存在者は、普段のわたしたちの卑近な場所にもいらっしゃいます。言うまでもなくわたしたちの一人ひとりの親です。一人前の人間としての育ちに密接に関わり、世のため、人のためになる大人としての歩みの大きな応援者です。同時に、わが子の社会と多くの人との交わりの接点ともなっています。

主の奉献:両親はイエスを主に献げるため、エルサレムに連れて行った
主の奉献(A年)の聖書=ルカ2・22~40 モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はイエスを主に献げるため、エルサレムに連れて行った。

現代のわたしたちにとって、多くの人との出会いの場所はたくさんあります。イエスの時代においてもそうでした。その最たる場所は、神殿でした。神殿では祭儀が営まれます。礼拝者は供え物やいけにえをささげ、神託を受け、契約の食事を行うのです。

シメオンに抱かれたイエスの「問いかけ」

当時のイスラエル人は、救い主の到来を待ち望んでいました。中でも、熱心に待ち望んで、正しく生きている人たちがいました。その代表者がシメオンであり、アンナです。シメオンが霊に導かれて神殿に入ると、幼子のためにいけにえを捧げる両親に出会い、幼子を腕に抱きます。「抱く」とは、単に両腕で包み込むといった外面的な動きだけを示す言葉ではなく、「自分にとって大切なものだから、受け入れて大事にする」という意味合いを表しています。

そのシメオンが神をたたえ、人を祝福することができたのは、その腕に抱かれた幼子が神と人とを結び合わせる接点となっているからです。つまり、幼子は、神が「万民のために整えてくださった救い」だからです。幼子はわたしたちに救いをもたらしてくれるのです。そのために、人から拒絶され、捨て去られることを通して、神の救いの業が成就するのです。

今日の「主の奉献」の祝日は、神殿において、イエスを通して、人が神と真に出会えた日であり、神の救いの業があらわにされた日であります。わたしたちもシメオンと同じようにイエスを腕に抱き、神と出会わなければいけませんが、その出会いの場が「おねだりの場」となっていないでしょうか。

神と人との出会いの場を大事にしているか

つまり、神との出会いの場が、人間が作った建造物になって、さらに歴史を重ねていくにつれて、聖所が神の指導を受ける場ではなくなり、人の願望の成就を願う場に変貌してきたのではないでしょうか。わたしたちは、人間の理解領域の世界に、神を閉じ込めていないでしょうか。

人の世界では、「橋渡し」役はあくまでも表に出てこない脇役です。しかし、信仰の世界では、主役なのです。それなくしては、神と人との真の出会いはあり得なかったのです。このことを改めて意識し、確認する一日となりますように。その先に、わたしたちが、隠されている神の秘密の伝達者になっていく道が、少しずつ開けてきます。

多くの人と神を結び合わせるイエス(接点)を大事にしているでしょうか、・・。

 

【2月2日】主の奉献(A年)の聖書はこちら

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