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年間第24主日:神に出会った者は、「心から赦す」者になるよう招かれている

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年間第24主日(A年)の説教⇒2026/09/13

【2026】説教の年間テーマ=神は罪びとに道を示される

年間第24主日(A年)の説教=マタイ18・21-35

2026年9月13日

いきなりテレビドラマの話になって申し訳ありません。

ある刑事ドラマでした。刑事が犯人を捜索するためにある女性に会います。その方は学校の教師です。20年前の教え子たちのことを聞かれ、彼女は記憶にある範囲の中で答えます。実は、そのかつての生徒たちが、ある女性を計画的に仕組んだ方法で殺害したという疑惑をかけられていたのです。彼らは高校時代、仲よし五人組で知られていました。

ところが、物語は意外な展開を見せます。その仲良し五人組の一人ひとりが次々に殺害されていくのです。刑事はそちらの方へと捜索の輪を広げていきます。そして、女教師にたどり着いたのです。そして、殺害された「ある女性」とは、女教師と姉、妹のような間柄だったというのです。

刑事と女性教師の会話です。教師が「悲しみは時が解決するというけれども、そうではないですよね」刑事曰く。「悲しみは時とともに消えてなくなるものではないです。」刑事も小学生の息子を、通り魔の手にかかり亡くしていました。刑事は続けます。「だから、残された者にとって、その悲しみを乗り越えて生きていくことが、供養になるのではないかと思っています。」と。そして、女性教師は、「妹」を殺された報復のための、連続殺人を犯した旨を自供したのでした。

テレビドラマの話とはいえ、わたしたちの身近に起こりうる、あるいは起こっているかもしれない出来事でもあるのではないかと思います。何も「殺人事件」とまではいかなくとも、「仕返しをしてやろう」と思って何かを仕掛けること、或いは、仕掛けたいことってないでしょうか。又は、実際に実行に移さなくとも、「思いの中で」実行していることってないでしょうか。

わたしたちって、何かを人にされたら、それが、嫌がらせみたいなことであれば、すぐに、それに反応します。それがいい方に向かえばいいのでしょうが、その逆の方に、これまた、自然に向いているのではないでしょうか。それも、まさか「倍返し」とまではいかなくても、・・。

年間第24主日:兄弟があなたに罪を犯したら、七の七十倍までも赦しなさい
年間第24主日(A年)の福音=マタイ18・21-35 〔そのとき、〕ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。

今日の第二朗読でパウロは、「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」と言っています。このような生き方の対極にあるのが「自分に生き、自分に死ぬ」という在り方です。人は自分に生きるなら、神に感謝せず、他人を攻撃するようになります。「自分」に合わないものを排除したくなるからです。

パウロは別の個所でこうも言っています。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」(ロマ書12章19節~21節)と、生活の基本的原理である愛を説きます。

さらに福音書ではペトロが尋ねます。「ペトロがイエスのところに来て言った。『主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。』イエスは言われた。『あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。』」

無限に赦しなさい、ということでしょう。その都度、赦し続けなさい、と。それができるためには、パウロが言うように「自分のために生き、死ぬ」のであれば不可能だ、ということになりますが、「主とのかかわりの中で」生きるときに、それはできるというのです。

また、ペトロは「赦し」は何回までですか、と尋ねています。ユダヤ教のラビは兄弟をゆるす回数を三回までと教えます。それに比べると「七回」は寛容さを示しているとも言えますが、そもそも「赦し」に関するペトロの理解が、イエスと大いに異なります。ペトロは「我慢する」ことだと。イエスの「赦し」は我慢ではありません。問題にしているのは、厳密な回数ではなく、ゆるすことに限度をおく「赦さない心」です。

イエスは極端なたとえをもって、「赦し」を明示なさいます。

「天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。 しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。」(マタイ18.24~)

ここで、一万タラントンというのは、巨額の金です。30億円を超える額に当たるそうです。ちょっとやそっとで返済できる額ではないでよね。王が命じるとおりにすべてを売り払ったとしても返済は無理でしょう。「どうか待ってください」と懇願して返済を約束する家来を、返せるはずもないと承知の上で赦します。「我慢する」ことにしたのではなく、「憐れ」に思って、その「憐み」が「赦し」となって現れています。金を取り戻すことよりも、その家来との関わりを大事にしたのです。

ここから言えるのは、「赦し」とは、今にも断ち切れようとしているかかわりの回復です。したがって、本当の損害、被害というのは、物質的なそれではなく、兄弟姉妹、仲間との交わりが損なわれることではないでしょうか。今の共同体の仲間のかかわりはいかがでしょうか。

わたしたちは皆、自分では負いきれない罪を、神の憐れみによって赦されています。そして誰もが神の前に「仲間」として生きることになります。それゆえに、

「深く憐れんで赦す」神に出会った者は、互いに「心から赦す」者になるよう招かれています。

 

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