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主の昇天:節目を大切に!転機に際しては「神の愛」を中心に据えてほしい

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2019年説教の年間テーマ=「召ばれています、いつも」

主の昇天(C年)の説教=ルカ24・46~53

2019年6月2日

裁判員を終えて戻ったら、職場の状況は一変

「えっ?」東京都の木村宏之さん(49歳)は、足下の地面がストンと抜けたような感覚を、7年たっても忘れてはいません。東京地裁の裁判員を終えて半月ぶりに出社すると、自分の机は3,4個の段ボールで埋まっていました。2011年11月のできごとです。社員300人のIT 関連会社に働き、上司の同意をもらって法廷に入ったのでした。(讀賣新聞大阪本社2019年5月21日朝刊)

結局、休んだ16日間のうち平日10日は欠勤扱いになっていました。給料も、手取り25万円が、裁判員の日当(約1万円)を合わせても17万円ほどに減っていました。その上、得意先の担当は同僚に変えられていたのです。

制度開始10年経っても社会環境は未整備

今年で裁判員制度が始まって10年になります。木村宏之さんが参加した強盗殺人事件の裁判では、裁判員と裁判官が濃密な議論を重ねて無期懲役に導いたり、その充実感がありました。また、社会貢献できたという自信もあったといいます。裁判員が大切な体験だったことは否めないようです。だからこそ、「同じような目に遭う人が出て欲しくない」と願っていると木村宏之さんはおっしゃいます。

裁判員の辞退率は増加傾向、昨年は67%

その一方で、裁判員を辞退する人が増えているとのこと。辞退率は2009年の53%から昨年は67%に。10年間で9万人の市民が法廷に参加した陰には、76万人を超える辞退者がいるというのです。理由の一つは、7割の裁判員を送り出す企業などに制度の理解が広まっていないからであると。厚生労働省が今年3月にまとめた調査によると、全国2904社のうち、裁判員向け特別休暇制度があるのは39%にとどまっています。特に中小企業では人手不足が深刻のようです。

こうした状況を裁判所はピンチと受けとめています。「辞退者が増え続ければ制度の土台が揺らぐ」と心配しています。いろんな市民の意見を裁判に反映させるのが制度の目的だからです。

人生の節目となる出来事に遭遇したときに

人間の世界では、その生涯の中で何度となく「節目」となる出来事、人との出会いがあるものです。そして、それは後々になって振り返ったときに気づく出来事、人が多いように思います。それによって、よい方に転換できる人、逆に悪い方に向かってしまった人、様々あるかと思います。もちろん、何も変わらない人もあるかもしれません。いずれにせよ、「何か」を起点に新たな歩みを前に進めていくことが多いのではないでしょうか。

それを基にどのように歩みを進めるのか

先の木村宏之さんの場合は、残念なことに「負」の方に向かわざるを得なかったようですが・・。裁判員を終わり、職場に戻ってみると、その雰囲気は冷ややか。つまり、排除する空気が漂っていたのでしょう。そこで会社を辞め、今では別の職場で働いているそうです。

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今日はキリスト昇天の祝日です。この祝日は、旅する民にとって、大きな転換を与える出来事であるということができます。それは、キリストの地上における役割の終わりを告げる出来事であり、新しい教会の誕生を知らせる出来事であります。

キリストは地上の役目を終えて、天に戻る

天にあげられていく主を見送る弟子たち。主との最後の別れの瞬間なのに、そこには、不思議なことに、かつてのおびえている様子、動揺しまくっている弟子たちの姿はありません。今までのように何かがあるとすぐにイエスに確かめて、力を得ることができなくなるのです。にもかかわらず、慌てふためいている様子がありません。それはなぜなのでしょう。弟子たちはイエスの復活の事実に遭遇し、そこから何か絶対的なものを勝ち取ったのでしょう。この世のいかなる暴力も破壊することのできない、また、イエスとの交わりが死によって絶たれることはないという神の力を体得したのではないでしょうか。

主と別れる弟子たちに動揺がない!なぜ?

その中身はと言えば、神の愛です。イエスの復活そのものが、神の愛のしるしだったのです。パウロは言っています。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。『わたしたちは、あなたのために一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている』と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、・・・わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマの人々への手紙8章35節~39節)

生きる中心を神におくことができたから

そして、弟子たちは「大きな喜びのうちに」エルサレムに帰り、動き出すのです。「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活し、その名によって罪の赦しへ導く悔い改めが、エルサレムから始まり、すべての民に宣べ伝えられる。あなたがたはこれらの証人である」との派遣をイエスから新たに受けたのでした。

それは、わたしたちにも求められている

弟子たちにとって大きな転換期となりました。わたしたちの日常でも、このような転換期はあります。どのように感じ、意識しているのでしょう。弟子たちは、神に生きる中心をおくことができました。わたしたちは完全にできなくても、少なくとも、その方に向かおうとして祈り、動いているでしょうか。仮に「失敗だらけだ」と思っているとしても、それに気づくのであれば、道は開けているのではないでしょうか。

木村宏之さんと同じように、「同じ目に遭う」ことがないように願い、祈ることも合わせ持ちたいですね。

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