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主の昇天:イエスは、弟子たちを祝福しながら、天に上げられた

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主の昇天(C年)の聖書

主の昇天(C年)の聖書

主の昇天(C年)の福音=ルカ24・46~53

2022年5月29日

〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕

24-46聖書には「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。

47また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、

48あなたがたはこれらのことの証人となる。

49わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」

50イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。

51そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。

52彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、

53絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。

 聖書本文は 日本聖書協会の「新共同訳聖書」から引用しています。
日曜日の聖書は、日曜日の説教とともに毎週木曜日の夕方に更新されます。
カトリック教会では日曜日のことを主日(しゅじつ)と言います。

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2022年5月29日の説教

主の昇天:各自がキリストの証人であることを意識させる『目覚めの祝日』
イエスが弟子たちに促し、命じているのは、日常の生活現場での意識転換であり、誰もが取り組めること。主の昇天は、わたしたち一人ひとりに生ぬるい生き方から、キリストの証人であることを意識させる『目覚めの祝日』です。

2019年6月2日の説教

主の昇天:節目を大切に!転機に際しては「神の愛」を中心に据えてほしい
主の昇天は弟子たちにとって大きな転換期となりました。わたしたちの日常でも、このような転換期はあります。どのように感じ、意識しているのでしょう。弟子たちは、神に生きる中心をおくことができました。わたしたちは完全にできなくても、少なくとも、その方に向かおうとして祈り、動いているでしょうか。

2016年5月8日の説教

主の昇天は、イエスが私たちに託された使命に目覚める転機
わたしたちは例外なく、「信仰の目」で見たことを語り継ぐあかし人なのです。そして、お互いの生き方の「転機」となるような存在者になっていきたいです。

2013年5月12日の説教

主の昇天:見えないが別の形で「共にいる」から心配無用
主の昇天(C年)の説教=ルカ24.46~532013年5月12日わたしたち人間は、等しく、例外なく、限られた時間の中で生活しています。そして、この生き方を楽しむように向けられています。時の移り変わりの中で生きている限り、いつかは終焉の時が来...

第一朗読と第二朗読を下の方に掲載しましたので、続けてお読みくだされば嬉しいです。実は、カトリック教会の主日(日曜日のこと)のミサでは第一朗読、第二朗読に続いて、三番目に上記の聖書(福音書)が朗読されます。

【注】第一朗読は復活節を除き、旧約聖書が朗読されます。因みに、復活節は新約聖書の使徒言行録が朗読されます。また、第二朗読では、新約聖書の中の使徒書と呼ばれる聖書が朗読されます。

第一朗読>>使徒たちの宣教

(使徒言行録1・1-11)

テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。
イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」
さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」

第二朗読>>使徒パウロのヘブライ人への手紙

(ヘブライ9・24-28、10・19-23)

キリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったのです。また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません。もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。
それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。更に、わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。

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yaziro

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yaziroの名は、1549年聖フランシスコ・ザビエルを鹿児島に案内してきた薩摩の人・ヤジローにあやかっています。

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