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四旬節第4主日:神は忍耐強く待っている。時がある間に回心を

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四旬節第4主日(C年)の説教=ルカ13.1~3、11~32

2016年3月6日

神のぬくもり「褒めて育てなさい」と、周辺では盛んに耳にしたり、目にしたりします。学校の教師、幼稚園等の教諭たちもその思いを引っさげて、現場に立っていらっしゃるのではないでしょうか。褒めてあげることは確かに大事であるとは思います。

しかし、はなから褒めるのではなく、本人がしたことをまず評価してあげることであると思います。その行為が人を助けることであったとすれば、行為そのものを評価し、そのことを本人に伝え、褒める理由を添えて伝えてあげることではないでしょうか。

こうした年齢期に受けた「教育」の実りが、その人のその後の育ちに影響していきます。教育を受ける人の心身の環境にもよります。資産のある人ない人、元気な人そうでない人、その人が受ける心身の影響に違いが生じます。その人の人となり、考え方の傾き、癖等、その人たらしめる特徴が、個性の養成がこの時期に始まるともいえるでしょう。

今日の福音ではそのことを感じさせる兄と弟の話が登場します。いうなれば、弟は挑戦家、冒険家とも言えそうです。家元を離れて一旗あげたいという野望を抱いて、受け継ぐはずの財産を現金に換えて旅立ちます。出発の際には意気揚々とした希望に満ちた出発だったはずです。

四旬節第4主日:お前のあの弟は生き返ったのだ。祝宴を開くのは当前だ
四旬節第4主日(C年)の聖書=ルカ15・1~3、11~32 〔そのとき、〕徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。

ところが、親元にいて何不自由なく暮らしていたころとの違いに気付かされていきます。それと同時に、生活することに対する無防備な自分を感じます。つまり、自分の「欲望」に対する対処の仕方が全くできていません。金にものをいわせ、思うがままにその場その場を過ごしていきます。錦を飾るどころか、生きること自体の大変さに目覚めていくのです。そして、ついに父のもとへ戻る決心をします。「父のところでは、大勢の雇人に、有り余るほどのパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ」ったからです。

わが息子を迎え入れる父親はといいますと、毎日まいにち息子の帰りを待っているのです。息子の言動を見張る父ではないのです。条件なしに迎え入れようと待っている父なのです。息子のなした行動を嘆き、心を痛める父なのです。

神はわたしたちの救いのために働きかけてやまない、いつくしみ深い神なのです。忍耐強く待っていてくださる神なのです。だから、時のあるうちに回心しましょう。神からわたしたちを拒否することはありません。信仰教育を始めた素直な時期を思い出してみましょう。あの時の思いは、今どのように成長したでしょう。そして、神のいつくしみを信じ、神の愛にしっかりとつながっていましょう。

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