
【2026】説教の年間テーマ=神は罪びとに道を示される
年間第15主日(A年)の説教=マタイ13・1~23
2026年7月12日
わたしたちの身近にある言葉の一つに「適材適所」という表現があります。
「適材適所」とは、その人の才能や性質を正しく判断し、最もふさわしい場所や役割に就けることを意味する四字熟語です。
その言葉の由来を調べてみますと、
この「木材をその性質に適した場所に使う」という職人の技術が、やがて組織における「人材の配置」にも転用されるようになりました。
特定の出典(故事)があるわけではありませんが、近代的な組織作りが進む中で、能力に人事配置を指す言葉として広く定着したと考えられています。(同上ディクショナリ)
今日の福音は、どうみても、わたしたちからすると、首をかしげたくなるようなお話です。特に農家の人からしますと考えられないことではないでしょうか。種をまくときに、道端とか石地とか茨などが生えてているところに蒔きますか。さらには、先ずは土を耕してから種をまくのが普通なのではないでしょうか。

そういえば、わたしがフィリピンにいたときの話です。現地の農家もイエスの時代と同じようなことをしていたということで、土を耕してから蒔くことを教えても、なかなかそうしなくて、指導に当たっていた日本人も困り果てたという話しを聞いたことがあります。
その国の文化というか、伝統というか、慣習というか、いろいろと異なるところがあります。
農作物が育つに必要な要素には何があるかと調べてみると、
太陽の光、水、肥沃な土壌等がたいせつになるのは言うまでもないでしょう。種自体が持っている豊かな生命力をさらに生かすために、その環境を整えることが求められます。その種を受け取る土壌が豊かで肥沃であれば、大きな実りををもたらすのは目に見えています。差し出す側(種)と受け取る側(土地)が合致したときに、種まく人が期待する収穫を豊かに受け取ることができるでしょう。
イエスはパレスティナの農耕に関する慣習を利用してたとえ話をしています。パレスティナの地でなされていた種まきでは、種そのものがどんなにすばらしい品種というか、生命力を持っていても、土地そのものが貧弱だと、その素晴らしさを発揮することはできないのでは、・・。
今日のたとえ話はそれと同じように、福音の言葉(種)が、いかに豊かで強い生命力を持っていても、それを受け取る人(土地)の心の状態があまりにも貧しいと、その種(み言葉)はその人の中では生かされていかないということを示しています。
イエスはいつも群衆の前で語ってきました。イエスを目当てに集まってくる人は、それこそいろいろです。健康な人、病んでいる人、それも身体的に病んでいる人もいれば、精神的に病んでいる人もいます。学者もいればそうでない人もいます。まさに種々さまざまです。好奇心や興味本位で集まった人たちもいたでしょう。さらには、悪意を持った抵抗する人々もいたはずです。
そのような人々に、イエスは平等に公平に語り続けます。受け取り方がどうであれ、語り続け、人の心に訴え続けます。たとえ、その語りが無駄に終わるとわかっていても、人々の救いを願って語り続けます。イエスは人々の哀れさをよくご存じです。分かっているがゆえに、そこから目をそらすことなく、・・それができないのです。その故に、聞き手がどのような心構えを持っているかに関係なく、さらに、無駄になることもいとわないで語り続けます。
それはひたすらわたしたち人間への愛ゆえです。
他方で、わたしたち一人ひとりは神から選ばれ、実は、それぞれに「適材適所」に置かれているのではないでしょうか。それに気づいた時に、自分が持ち合わせている能力がいかんなく発揮されます。自分の力、居場所に気づきましょう。そこからすべてが始まるような気がします。そして、福音の呼びかけがもっとはっきりと、確実に「わたし」の中に根付くのではないでしょうか。そこから外に向かって、強く大きく羽ばたくことができるでしょう。
それを願い、そして、少しずつでも実現させましょう、「わたし」の中に。



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