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年間第23主日:普段の生活の中で、優先順位の存在に目覚めてほしい

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2019年説教の年間テーマ=「召ばれています、いつも」

年間第23主日(C年)の説教=ルカ14・25~33

2019年9月8日

「爪のおしゃれ 礼拝でも」という見出しが目に入りました。「イスラムの女性」というコラム記事として掲載されていたのです。(讀賣新聞大阪本社、2019年9月2日朝刊)

爪のおしゃれを見て礼拝してない!と言われるが

その記事の内容は、「君はきちんと礼拝をしていないね!」という言葉で始まります。カイロ郊外に住む雑貨店経営のバサントさん(23歳)は、バスの中で男性からよくこう注意されてきたといいます。男性の視線の先にはいつも、バサントさんの赤いマニキュアがありました。イスラム教徒は一日5回の礼拝の前に、顔や手足を洗う「ウドゥー」と呼ばれる行為で心身を清めます。しかし、マニキュアをしていますと爪を洗うことができず、ウドゥーが不完全となり、礼拝自体も無効とみなされるのです。男たちはそれを問題にしたのです。

バサントさんはそういわれるたびに、「わたしは生理中なのでいいんです!」と言い返したくなったという。イスラム教が、「月経は不浄」として、生理中の女性の礼拝を免除しているからです。多くのイスラム教の女性のみなさんは、この期間だけ爪のおしゃれを楽しんでいるんだそうです。

合法のマニュキアだってあるし・・・

こうした状況の中、ポーランドの化粧品会社が、「ハラル(合法の)・マニキュア」を発売したのです。水分を透す性質のマニキュアのため、塗ったままでも爪を洗えるという触れ込みです。常に美しくありたい女性の心をつかみ、2013年の発売以来、サウジアラビアやアラブ首長国連邦で爆発的に売れているそうです。バサントさんは言います。「爪がきれいだと気分も上がるわ」と。

爪がきれいだと気分も上がり、やる気が出る

人間だれにでも元気が、やる気が出る時、ことがらがあるものです。年齢とともに、また、置かれている環境によって多少の変化があり得ますが、わたしたちみなに、共通した動機づけではないでしょうか。それらは、自分にとっても他者にとっても、基本的には、その実りが良い方に作用するものです。

今回のイスラム女性バサントさんのお話ですが、彼女が人として、女性として生きていることと、その彼女が行う神への礼拝行為との間に、壁(乖離)はないということではないかと思います。彼女の日常の中に神が関与し、支え、その恵みに感謝する礼拝がなされていくのです。

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今日の福音では、イエスは「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」と言われます。これは、ごく少数の限定された人に言われたのではなく、ご自分についてきた民衆一人ひとりに向かっての言葉でした。この言葉を文字通りに受け取って実践する人でないと、イエスの弟子になれないというのであれば、民衆のほとんどが落第生ではないんでしょうか。かなりきつい言葉です。今のわたしたちはどうでしょう。

イエスが民衆にきつい言葉で言ったのはなぜか

このようなきつい言葉をおっしゃるには、何かイエスに意図があるように感じるのです。先ずは、イエスご自身がその生き方をしているということです。これまで、身をもって弟子たちに示されてきたのです。また、今のわたしたちが、この言葉を受けとめる際に気になるのが、「憎む」という言葉の示していることは何かということです。

「憎む」は、「より少なく愛する」と同じ意味だといいます。(マタイ10章37~38節参照)

普段の生活における対人関係の中で、もっとも大切な親子の間柄でさえも、ご自分(イエス)の招きに優先することがあってはならない、と言われるのです。言いかえれば、いかなる人間よりもイエスを愛そうとする覚悟がなければ、イエスの弟子となって神の国に入ることはできないと言われます。「より少なく愛しては」いけないのです。

今、イエスについてきている民衆の心のうちを読みとることはできませんが、もし、彼らが自己満足の期待をしているとすれば、それはちょっとおかしいよと気づかせたいのではないでしょうか。ローマからの解放をイエスに期待してついてきた人があるかもしれません。それは違うよ、と言われるのです。それはあなたがたの妄想だよと、徹底的にその期待を崩そうとなさったのです。

何を大事にすべきか、優先順位を教えたかった

イエスが知らせたかったのは、キリスト者であるということ、キリストの弟子になるということは、生きるための優先順位に目覚めることだと、おっしゃりたいのです。イエス自身、その最高の評価をおん父におきます。人間的な愛情をつなぎながら、神に向かってこそ価値ある人生、真のしあわせと言えるのです、とイエスはおっしゃりたいのです。

あのバサントさんはどちらの方に向かっているのでしょう。どんな優先順位をつけているんでしょう。わたしたちの日常生活の中でも、同じような環境に置かれることは多々あります。常日頃の一人ひとりの生きざまにかかってきます。大事にしていることが、少しずつでも神に近いものになっていきますように、必死に願いましょう。祈りましょう。そして、小さくても、実践に移しましょう。失敗しても、絶えまない積み重ねです。毎日の普段に生きる中で。

 

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