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年間第23主日:イエスの弟子の条件は、自分の持ち物を一切捨てること

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今週の聖書-C年

年間第23主日(C年)の聖書=ルカ14・25~33

2019年9月8日

〔そのとき、〕25大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。

26「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。

27自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。

28あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。

29そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、

30『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。

31また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。

32もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。

33だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」

 聖書本文は 日本聖書協会の「新共同訳聖書」から引用しています。
日曜日の聖書は、日曜日の説教とともに毎週木曜日の夕方に更新されます。
カトリック教会では日曜日のことを主日(しゅじつ)と言います。

日曜日の説教もどうぞ!
日曜日(主日)の聖書に続いて、YASUさんの説教(メッセージ)はいかがでしょうか!
YASUさんはカトリックの神父さんです。

▽2019年9月8日分の説教は、9月5日(木)17:00公開予定です▽

年間第23主日:普段の生活の中で、優先順位の存在に目覚めてほしい
キリストの弟子になるということは、生きるための優先順位に目覚めることだと、おっしゃりたいのです。イエス自身、その最高の評価をおん父におきます。人間的な愛情をつなぎながら、神に向かってこそ価値ある人生、真のしあわせと言えるのです、とイエスはおっしゃりたいのです。

2016年9月4日の説教

年間第23主日:現世的なことに囚われ、確かな価値を見失わないように!
今日のイエスさまの弟子たるもののきびしい条件は、現世的な利益と安寧を求める時代背景の中で語られたものです。わたしたちも現世的な価値観にとらわれ、目先の幸せや利益に目がくらむことはよくあります。

2013年9月8日の説教

年間第23主日:イエスさまは生きる最高の価値を「神」に置く
現代でも、有名人になれば一目見たいという好奇心がわいてくるものです。この「好奇心」の陰に横たわっていた人々の現世的利益と幸福を願う思いを、イエスさまは徹底的に崩してしまおうとされたのでしょう。

第一朗読と第二朗読を以下に掲載しますので、続けてお読みくだされば嬉しいです。実は、カトリック教会の主日(日曜日のこと)のミサでは上記の聖書(福音書)より先に読まれます。

【注】第一朗読は復活節を除き、旧約聖書が朗読されます。因みに、復活節は新約聖書の使徒言行録が朗読されます。また、第二朗読では、新約聖書の中の使徒書と呼ばれる聖書が朗読されます。

第一朗読>>知恵の書

(知恵9・13~18)

「神の計画を知りうる者がいるでしょうか。
主の御旨を悟りうる者がいるでしょうか。
死すべき人間の考えは浅はかで、
わたしたちの思いは不確かです。
朽ちるべき体は魂の重荷となり、
地上の幕屋が、悩む心を圧迫します。
地上のことでさえかろうじて推し量り、
手中にあることさえ見いだすのに苦労するなら、
まして天上のことをだれが探り出せましょう。
あなたが知恵をお与えにならなかったなら、
天の高みから聖なる霊を遣わされなかったなら、
だれが御旨を知ることができたでしょうか。
こうして地に住む人間の道はまっすぐにされ、
人はあなたの望まれることを学ぶようになり、
知恵によって救われたのです。」

第二朗読>>使徒パウロのフィレモンへの手紙

(フィレモン9b~10、12~17)

〔愛する者よ、〕年老いて、今はまた、キリスト・イエスの囚人となっている、このパウロは、監禁中にもうけたわたしの子オネシモのことで、頼みがあるのです。わたしの心であるオネシモを、あなたのもとに送り帰します。本当は、わたしのもとに引き止めて、福音のゆえに監禁されている間、あなたの代わりに仕えてもらってもよいと思ったのですが、あなたの承諾なしには何もしたくありません。それは、あなたのせっかくの善い行いが、強いられたかたちでなく、自発的になされるようにと思うからです。恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません。その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです。
だから、わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら、オネシモをわたしと思って迎え入れてください。

日曜日の聖書
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yaziro

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カトリック教会のこと、デジタルのことに関心を持つ還暦世代です。
yaziroの名は、1549年聖フランシスコ・ザビエルを鹿児島に案内してきた薩摩の人・ヤジローに由来しています。

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