年間第17主日(A年)の説教=マタイ13.44~52

2011年7月24日

神のみことば

どこの幼稚園でも、「誕生会」なるものがあると思います。その時、大きくなったら何になりたいですか、のコーナーがあります。昔は、女の子は「ケーキ屋さん」、男の子は「プロ野球の選手」という子が多かったように思います。

最近は違います。女の子は「プリキア・・・」、男の子は「仮面ライダー・・・」になりたいという子が多いです。時代の流れの中で、テレビ、雑誌等による取り扱い内容が変わってきたのでしょう。致しかたないといえばそれまでですが、何か、子どもに夢を感じないのはわたしだけでしょうか。

子どもが生まれてきますと、親御さんはその子に夢と希望を託して、それにふさわしい名前をつけます。その名前が、子育ての基盤になってくれればいいのにと思うことです。ところが、「こんな子に育てたつもりはない」と嘆き節が聞こえてきます。それもまだ子育て奮闘中に出てきます。そして、子育てがいやになってきます。

私事で恐縮ですが、自分の親はどうだったかなと振り返ってみますと、わたしの記憶にある限り、「嘆き節」を聞いた覚えがありません。逆に、「親孝行をしたい」と思うようになった自分を記憶しています。小学校3年生のときです。母親が話してくれた話の中で覚えているのはひとつです。そればかりを話していたのかどうかはわかりませんが、「天国」の話でした。

「天国はね、お前が好きな果物が一杯あって、きれいな花々が咲いていて、マリアさまがいつもにこにこしているところだよ」という話でした。要するに、子どもが天国へ行ってみたくなるような希望ある話をしてくれていました。空想の世界の話ではないのです。

この世に生きている人で、誰も天国に行った人はいませんので、「天国とはね、・・・」とたとえを用いて話さざるを得ません。わたしたちの世界で理解しうる表現と言葉を用いて、今日のイエスさまは天の国を伝えてくれます。

わたしたちの周囲にはたくさんの善意にあふれた人々がいます。このようなカトリック信者ではない人も、何かを求めています。本人に、神に向かっているという意識はないにしても、確かに神に向かっているのです。

同時に、それは、神もキリストも、その人たちには隠されているということでもあります。彼らの求め方が悪いからでしょうか?それはありえないでしょう。むしろ、キリストを紹介していくわたしたちカトリック者の責任が問われているような気がします。工夫しながら前進していきましょう。