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年間第15主日:イエスに呼ばれた者の役割⇒神のことば、思いを人々に伝える

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年間第15主日(B年)の説教

2024年(B年)説教の年間テーマ=あなたの言葉は「わたし」の道の光

年間第15主日(B年)の説教=マルコ6・7~13

2024年7月14日

「『教員になりたかった』とこの年齢まで思い続けていました。人が人を育てる仕事だからです。人工知能(AI)やスマートフォンでは人の心は育てられません」と投稿なさっているのは、原田洋子さん(77歳・薩摩川内市、無職)です。(南日本新聞2024年7月5日朝刊)

原田さんは3人姉妹の長女で、家庭は貧しく高校に行けませんでした。1962年(昭和37年)に、鹿児島から集団就職列車で岐阜の工場へ。それ以来、家に3年半毎月仕送りを続け、自らの「教員になりたい」という夢を実現することはできませんでした。

そして、投稿の最後に綴っています。「教職の魅力ややりがいを投稿される先生たちを頼もしく思います。これからの世界を背負っていく生徒を育てることに誇りを持ってください。応援しています。」と。

また一方で、教員からのお世話をいただく真っただ中にいる生徒さん、柳迫小学校6年生の小川亜由梨さんの投稿もありました。

「小学校最後の運動会がありました。5,6年生全員が応援団をします。私は赤組の副団長になったので、団長の役に立つように動きました。最初は声が小さかったり、動きがそろわなかったりしました。6年生がお手本を見せて、5年生に教えました。『きちんとしないと』という気持ちでいっぱいでした。・・・来年は今の5年生がお手本になって、柳迫小を盛り上げてほしいと思います。」と結んでいます。(同上紙)

大方の幼稚園の誕生会において、「大きくなったらどんな人になりたいですか」という質問コーナーがあるのではないでしょうか。長い間、幼児教育の現場にお世話になってきましたが、これまで一回だけ、「この幼稚園の先生になりたいです」と、その時、子ども自身が在園している幼稚園の名前を出して発表してくれた園児がいました。正直、さすがに嬉しかったですね。
以前は、学校の「先生」は聖職者と呼ばれ、尊ばれていたものでした。一目置かれていたのではなかったでしょうか。それが今ではどうでしょう。ともすれば、起訴されて裁判沙汰にまで発展することがよくある時代になってきました。このことは何を意味するのか・・。一人ひとりの意識の目覚めと言えるのか、余りにも一人ひとりが利己主義的になってきたのでしょうか。それとも、これが本来のあるべき姿なのでしょうか。
最近思うことがあります。本来の日本人が保有している「慮る心」が、影を潜めてきたのではないかということです。つまり、他者のために仕事ができていたのが、またそれが喜びでしたが、自分のためにしているのではないかと思われるんですよね。それゆえに、自分にとって嫌なことがあると、それが誰かのせいでそうなったと思い込んでしまっている、という現象が繰り返し、続いているのではないかと。そうなると、だんだんと視野が狭くなり、人間が小さくなっていきますよね。いわゆる、人間性が「疲弊してくる」のです。だんだんと人としての魅力が失せてきます。本来こうであるという姿が見えなくなり、その道から遠ざかるばかりです。挙句の果てに、自らの中に埋没してしまいます。

このような状態が、今日の福音の前提になっているようです。

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今日の福音書では、弟子たちが派遣される場面が朗読されます。

神のなさり方は、人を思うばかりに、人と神との関係が希薄になっていくようであれば、先手を打って、新たな手法を用いて歴史を導いていかれます。イエスをこの世に派遣したことはその最たるものでした。神は人類の歴史の中で、預言者を遣わしご自分の思いを地上の民に現わそうとなさってきました。ところが、プロの預言者たちは不誠実で頼りにならないと見るや、「家畜を飼っていた」アモスを急遽遣わして歴史に介入されるのです。(第一朗読
イエスはこのことをよくご存じだったので、弟子たちを養成なさるにしても、そして、ついに派遣するにあたっても、とても心配りをなさいます。特に8~11節がイエスの指示内容です。が、その中身といえば、宣教地に向かう旅での態度を教え、目的地では取るべき態度について指示を与えます。微に入り細を穿つ配慮が施されています。それは何のためだったのでしょうか。12人が、これまでの預言者たちのように、堕落して本来の任務を反故にしないようにとの願いが込められています。言い換えれば、12人の弟子たちが、預言者たちのように、「自己埋没」して、本来の役割を放棄してしまうことのないようにとの配慮です。

では、現在のわたしたちはといえば、弟子たちと同じく、イエスに呼び寄せられ、養成され、そして遣わされているのは確かです。このことをどれだけ意識しているのでしょうか。「呼び出された」時点で、かつて、イエスが弟子たちになさった温かい配慮の心をもって、わたしたちにも接しておられることも確かです。だからこそ、弟子たちがイエスに惹かれ、その中に入り込んでいったように、わたしたちも引き込まれて行ってもいいのですが、現実はそうなっていないのです。「わたし」の都合が、「イエス」の都合に勝っているからでしょう。これを推し進めていくその先には、「自己埋没」という破滅が待ち構えています。

わたしたちも弟子たちと同じように、派遣されています。そして、同じ役割を担っているのです。それというのは、神の思いを多くの民に伝えることです。そして、イエスがいつも配慮されます。どうしてかといえば、民が、わたしたちが伝える神のことば、思いを誤解することのないようにするためです。それは同時に、わたしたちが、自らの本来の姿を保ち続けるためでもあります。

わたしたちの役割、任務の詳細並びに表現のあり方については、年代が進むにつれて、多少の変化は生じるかもしれませんが、基本的には託されているものに変わりはありません。

「神のことば、思いを伝える」ということです。

 

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