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年間第16主日:毒麦の話は外見で評価し、裁いてしまいがちな人間への警鐘

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年間第16主日(A年)の説教

2023年(A年)説教の年間テーマ=み言葉は「救い」の見極め

年間第16主日(A年)の説教=マタイ13・24~43

2023年7月23日

時代とともに教育環境にも大きな変化が

時が移り時代が変わると、それにつれて影響されて変化するもの、ことが必然的に出てきます。良く変わるものはいいのですが、その逆だと嘆き節ばかりが出てきそうです。

特に感じていることがあります。子どもたちの変わりようです。明らかに子どもたちは文明の力によってより合理的に早く、そして、きれいに物事を進め、完成させていくことができるようになっています。実に利口で、理知的です。わたしが今の彼らと同じ年代だったころからすると雲泥の差です。

といっても、この世に完璧な人、もの、施設、場所等が、そして、共同体があるわけがありません。したがって、必ずや一方を立てれば一方が立たないことだってあるのです。だから求められることは、絶えず、緊張感ある研究とその展開、そしてひたすら歩を前に進めることでしょう。

通信制高校は、今や”不登校生”が多数に

第二次世界大戦後、通信制高校は働く人の教育の場として広まってきました。それが、近年は不登校生のセーフティーネットの役割を担い、多様化が進んでいるといいます。その役割の幅が広がってきたということですね。以前よりは明らかに便利に、活用しやすくなってきたのは事実でしょう。それにより、生徒一人ひとりの輝きも変わってきたのではないかと感じています。

確かに在宅学習を基本にインターネットを通じた授業などを受ける生徒が増え始めているようです。コロナ禍にあって、在宅学習の機会が増えてきたことも、後押ししている要因でしょうか。2020年度は約20万7千人ほどであったのが、2022年度は23万8千人となっています。

偏差値以外の価値観を求める生徒も増加

それでも、通信制生徒の増大の背景には、不登校の増加があるものとみられています。その一方で、自分のペースで学べることを利用して進学先に選ぶケースもあるといいます。つまり、生徒自らが、自分の置かれた環境を考えつつ選び取っていく積極的な姿が、普通になってきたとも言えます。あの「偏差値」を気にすることなく、「なりたい大人になる」を目指した選択をする生徒が増えてきたのかなという印象を受けます。わたし個人の印象です。

ところで、屋久島町(鹿児島県)に本校を置く「屋久島おおぞら」高校があります。この学校は生徒の増加に伴い新校舎の建設を決めています。生徒数が2022年度には一万人を超えたからだそうです。(南日本新聞2023年7月17日朝刊)

押し付けがない「屋久島おおぞら高校」

生徒が日常的に学ぶ場は自宅であり、学習指導を受けられる全国各地のサポート校です。そして、年に一度、屋久島の本校で自然体験活動に参加したり、コミュニケーション力を養う授業を受けたりします。「『なりたい大人になる』がテーマ。大学受験を頑張ってもいいし、そうでなくてもいい。特定の価値観を押し付けないのが特徴です」と同校校長で脳科学者の茂木健一郎さんは語ります。さらに広報担当者は「30~40人が同じ教室で同じ学びを同じペースで行うことに違和感をもって入学する生徒も少なくない」と説明しています。

独自性、多様性尊重の陰に見逃せない課題

一方で課題もあると指摘する人もいます。「一概に言えないが、教育の質にばらつきがある」と。不登校生らを支援する認定NPO法人「DXP」の今井紀明理事長です。さらに「不登校や引きこもりを体験した子どもは人や社会と関わる経験が少ない。再び人との関係を築ける手厚いサポートが必要です」と訴えています。

404 NOT FOUND | 教会のITサポート:826村
826村のテーマは、インターネット教会(電子教会)の研究です。

わたしたちは黙っていても共にいることを好みます。好感を持てる人、信頼できる人など一緒にいたい人はたくさんいます。そして、その集まりが大きくなればなるほど、集団をまとめる誰かが出てきます。いろんな人が自由に集まってくるからです。当然のごとく、利害関係も出てきます。外見だけで裁きあってしまう傾向が出てきてしまうものです。今のわたしたちの間に起きているトラブルを見ればよく分かるのではないでしょうか。

人が集まれば多種多様な意見、利害関係も

今日のイエスの語りの背景にあったのが、イエスを慕って集まってきた人々の共同体が誕生し始めたということです。そして、そこでいろいろなトラブルが起こり始めたことを前提に、語られた毒麦のたとえ話なのです。実にイエスを求めて集まってきた人は、いろいろな階層の人々です。社会の底辺で労苦を背負っている人、地位のある人、学識の高い人、税吏や罪びともいたことでしょう。また、集ってきた動機もそれぞれです。

イエスを取りまく人々の群れには、イエスのメッセージの真実を見抜いている人もいれば、イエスの求めた心からは、ほど遠い人々もいたでしょう。イエスを慕い、イエスの名を語る人々はそのほとんどが、まことの信仰と偽りの信仰、永遠への渇きと地上的な充足を求める心とが互いに入り混じっているのです。外見からはそのことを見分けること、区別することはとても無理な話です。だから、いつも謙虚でいたいのです。

人が人を簡単に裁くな、”裁き”は神の領域

毒麦のたとえは、こうした人間の現実をより知り尽くしたイエスだからこその、わたしたちへのやさしい愛ではないでしょうか。いざ毒麦を抜くとなれば、良い麦との区別がつかず、良い麦までも抜いてしまうことになってしまうので、双方育つままにしておきななさい、とイエスは言われます。いわゆる、「悔い改め」に気づく時間を、わたしたちに与えてくださっているのです。同時にこれは、外見で簡単に人を裁くな、それは神の領域の世界である、と言われているのです。自分の「はかり」ほど身勝手で、不安定で不確実なものはありません。

わたしたちも教会を形作っています。他人を非難するよりも、一人ひとりがイエスとの真実の出会いを通して実るように祈りあうことです。互いの弱さや過ちを背負いあうことです。そして、自分の信仰が真実のものであるように自分の心を見つめることでしょう。これが本来の「教会の心」であるのではないでしょうか。これこそイエスの意にかなった心です。

現代の若者が、自らの心を見つめ、自らが判断行動しているように、他者もまたそうであるということを温かく包みあえるような「わたしたち」でありたいですね。

そこには真の共同体が誕生します。

 

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