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王であるキリスト:神は「わたし」の決定的な時に、なにをどう評価する

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王であるキリスト(A年)の説教

2020年(A年)説教の年間テーマ=「応えていますか、いつも」

王であるキリスト(A年)の説教=マタイ25・31~46

2020年11月22日

「就学前まで幼児座席可」の見出しが目に入りました。どんな中身だろうと読んでいきますと、いわゆる、「自転車の二人乗り」のことでした。自転車の後部に取り付ける幼児用座席に乗せられる子どもの年齢について、6歳未満に限るとされていたルールを「小学校入学前」へ変更する動きが広がっているというのです。(南日本新聞2020年11月17日朝刊)

自転車二人乗り規則 緩和の動きから

これまでは、同じ学年の子どもでも、6歳の誕生日が来たかどうかで使用の可否が分かれていました。しかし、送迎に自転車を使う保護者らに配慮して緩和されてきたようです。やがて6歳になる長女を乗せて通園していた40代の男性会社員は、「変更がなければバスで通わなくてはいけなかった。保護者目線の取り組みだ」と評価しています。

幼児用座席に関するルールは各都道府県の公安委員会規則で規定されています。これまでは全国一律で6歳未満とされていましたが、大分県が今年4月に先陣を切ってルールを変更すると、他の自治体が次々に追随しています。今月までに25道府県が新ルール採用を決めています。保護者の声に加え、製品安全協会(東京)が「小学校入学前」へと安全基準を変更したことが後押ししたものと思われます。

ただし、新たな安全基準にも「乗せられる子どもの体重は8~22㎏」との条件が付いています。文部科学省の調査によりますと、全国の6歳児の平均体重は男子21・4㌔、女子20・9㌔。体形によっては基準をオーバーする恐れがあります。自転車は子どもを乗せていなくても、不安定な二輪車です。二人乗りとなると、その安定性はますますルーズになってしまいます。

8月にルールを改正した鹿児島県警交通企画課の福丸竜市理事官は「けが防止のためにもヘルメットやシートベルト着用を徹底してほしい」と呼び掛けています。

規制するとき、緩和するときの基準は

世の中には、様々な約束事、規則等があります。そして、それらにはその始まりというか、手本となる事案があるのではないでしょうか。

自転車の場合ですと、その安全性を定めるのに、何を規準にしているのでしょうか。たくさんの人々が利用する便利なものになればなるだけ安全性は大事になってきます。人の世界では、絶対的な「規範」はないでしょうが、人のいのちがかかわっています。

子どものころの自転車といえば、「三角乗り」をして自転車乗りを覚え、楽しんでいたものです。そのころは、子ども用の自転車がなかったのか、仮に、あったとしても、買って練習する、楽しむような金銭的余裕がなかったというのが現実でした。同時に、今日ほど利便性の高さもなく、日常の必需品としての関心も低かった時代でした。

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今日の福音書は、「すべての民の裁き」について示されています。問題にされているのは、その際の「規準」です。

神がすべての人を裁くときの基準とは

神の前において、何が価値あるものになるのでしょうか。仕事の業績でしょうか、社会への貢献度の大きさでしょうか。わたしたち人間世界での常識は、その人の才能、社会的な貢献度の高さ、大きさで、その人をはかってしまがちになります。秋の文化勲章の対象者は、明らかに社会的業績が大きかった人になります。そのような人が評価されることは当然とはいえますが、そうでない人もいます。むしろ、そういう方のほうが多いのではないでしょうか。さらに、病の人や心身の障害を抱えていらっしゃる人などは無視されていいのでしょうか。

イエスはパウロの言葉を通して答えてくれます。「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。 愛は決して滅びない。」(コリントの信徒への第一の手紙13章1~8節)と。

それは愛の業を生きてたかどうかだけ

神が「わたし」の「決定的な時」に、「わたしの一生」をお裁きになる規準は、愛の業を生きてきたかどうかということだけです。しかも、社会的に目立つような大きな業である必要はないのです。また、才能や学歴などとも関係ないのです。愛はその人の心から出るものですから、どのような人であっても、心が与えられている人であれば可能なことです。

今日の福音書にある通りです。「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」と。

日常生活のごく普通の人間関係の中で、何気なくやっていることです。また、やってきたことです。この小さな業の中で、イエスと出会っているのです。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」といわれます。

身近な小さなことであっても、そうであるからこそ、自分の真心を注ぎたいですね。

 

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