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年間第2主日:神に呼ばれた者として、人々に何を語り、伝え、見せているのか

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2020年(A年)説教の年間テーマ=「応えていますか、いつも」

2020年(A年)説教の年間テーマ=「応えていますか、いつも」

年間第2主日(A年)の説教=ヨハネ1・29~34

2020年1月19日

世の中の出来事を、小学校の高学年以上の子どもにわかってもらおうという目的のもとに、NHKが「週刊子どもニュース」という番組を制作していました。かなり以前(1994年に始まる)の番組ですが、その内容設定は、五人家族が週末、自宅で一週間のニュースを振り返るという設定です。父親役、母親役と三人の子どもたちによって構成されています。

池上彰氏の「相手に『伝わる』話し方」から

その初代の父親役を担当したのが池上彰氏です。番組を終えて、池上氏は振り返ります。

「わたしが担当する『週刊子どもニュースで』で、イスラエルとパレスティナの紛争問題を取り上げたときのことです。パレスティナと呼ばれる土地に、ユダヤ人がイスラエル国家を建設して以来の中東戦争の歴史について、わたしが模型を使って説明しました。わたしの説明が終わった途端、出演者の小学校四年生の女の子が『それって、子どものケンカみたいだね』と一言。愕然としました。・・・思わず反論しながらも、そうか、宗教や民族、土地をめぐる争いというのは、日本の子どもにはなかなか理解できないものなのだな、と改めて考えさせられました。

しかし、考えているうちに、むしろ、子どもにそういう反応をさせてしまうわたしの説明にこそ問題があるのではないか、と思うようになりました。まるで『子どものケンカ』であるかのような印象を与えてしまう説明であったなら、それは、その説明の方が不十分だったのではないか、ということです。わたしの説明を聞いた後、『それは大変な問題だ。どうすれば解決の糸口が見つかるのだろう』と子どもが考え込むような、そんな説明こそすべきだったのではないか」と。(池上彰著「相手に『伝わる』話し方」)

あの語り口は、自問自答の繰り返しの賜物

現在、いろいろなテレビ番組を通して語りかけている池上さんですが、あの語り口の原点は、「週刊子どもニュース」にあったのでしょうか。少なくとも、わたしにはやさしく、分かりやすい説明として響いてきます。確かに、話し言葉はすぐに消えてしまいます。話の中でわからない、もしくはわかりにくい言葉、表現が出てきますとそこでひっかかってしまいます。つまり、全体の話が分かりにくくなってしまうのです。そうした経験を何回もしたことがあります。特に、外国語となれば何をか言わんやです。したがって、池上さんは「こんな言い方で、相手にわかってもらえるのかな」と常に自問自答を繰り返しながら、言葉を選んで伝えようとされているんだそうです。

「世の罪を取り除く神の小羊」という紹介

今日の福音書では、洗礼者ヨハネが、自分の弟子たちにイエスの正体をあかす場面が出てきます。「世の罪を取り除く神の小羊」としてのイエスを示すのです。

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ヨハネの弟子たちはどうしてヨハネのもとに集まってきたのでしょうか。彼らの出会いのその時、何があったのでしょうか。今のわたしたちの日頃の出会いをもとに、繙(ひもと)いていけるのではないかと思います。

とはいっても、ごく日常的なことだと思うんです。すなはち、いつもの人との出会いです。毎日いろいろな人との出会いがあります。先ずは家族内の親子・兄弟姉妹、友達であったり、職場の同僚、昔懐かしい幼なじみなど、しかも、いろんな場所で出会うことでしょう。そして、「この人に出会うことがなかったら、・・」と、自分の人生における出会いの重要さに気づかされることもあるのではないでしょうか。「誰に」出会うかによって、人の人生は大きく影響されます。「朱に交われば赤くなる」からです。

ヨハネの清い生き方がその言葉に力を与えた

ヨハネの弟子たちは、ヨハネに出会ったことにより、イエスとの出会いへとつながりました。ヨハネのもとに留まった弟子たちは、弟子たちの心意気もさることながら、ヨハネの何かに魅かれていったのでしょう。その「何か」とは、・・。

ヨハネは罪の汚れを知らずにすくすくと育ち、預言の通りキリストの先駆者としてふさわしい準備をするために、ヨルダン川岸の荒れ野で苦行の生活を送りました。腰に皮帯を締め、いなごと野蜜を常食とし、アルコール類をいっさい口にしませんでした。その清い生活ゆえに培われた純粋な救いへの飢え、熱望は、力強い言葉の調子とともに、聞く人を魅了したのです。ヨハネの神に対する情熱は純粋であったからこそ、他の誰よりも人をその中に巻き込んでいく力と魅力があったのでしょう。一般民衆にとっても、ヨハネは救いの大きな希望となっていったのでした。

イエスを語るわたしたちに問題はないのか?

今の教会・わたしたち一人ひとりも、ヨハネと同じように、イエスとの出会いへと人々を招き、希望となるべく交わりを重ねています。現実はどうでしょうか。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」とイエスを紹介していても、ヨハネと弟子たちとの出会いのように、燃えるような熱気に満ちた出会いになっているのでしょうか。現代の人々に問題があるのでしょうか。イエスを知らない人々を責めるよりも、イエスを語るわたしたちの方にこそ問題があるのではないでしょうか。出会う人々の心を明るくし、やる気を起こさせ、安心して人々の歩みを前に押し出す力になっているのでしょうか。「わたしたちはメシアを見つけた」(ヨハネ1章41節)と言ってもらうために。

池上さんは、むずかしい言葉を「やさしく言い換える」ことが、大変むずかしいと言われます。でも、このことが大事なのでしょう。福音宣教にとっても、工夫することは大切です。そして、何よりも大切なのは、「わたし」がヨハネの心を、現代に生きている環境の中で学び、感じ取っていくことではないのでしょうか。そのための工夫とは、・・?!

神に「呼ばれた者」として。

 

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