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待降節第4主日:マリアが持つ神とのコミュニケーション力に着目しよう

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「神への道標」

2018年説教の年間テーマ「神への道標」

待降節第4主日(B年)の説教=ルカ1・26~38

2017年12月24日

「わたしたちは忙しすぎます。ほほえみを交わすひまさえありません。
ほほえみ ふれあいを忘れた人がいます。これはとても大きな貧困です。
多くの人は病んでいます。自分がまったく愛されていない 関心をもってもらえない いなくてもいい人間なのだと・・・・・。
人間にとって いちばんひどい病気は だれからも必要とされていないと感じることです。」(「マザー・テレサ 愛のことば」より)

イエスさまの降誕を前に、最後の日曜日を迎えました。

私が思う降誕祭の大きなメッセージとは?

毎年のことながら、巷では早々と“クリスマス”雰囲気を盛り上げてくれます。そのこともあってか、教会のデコレーションが年々質素になっていくような気がします。外観は質素でも中身の濃いイエスさまの「誕生祭」になればいいですね。実にイエスさまの誕生そのものは、人知れず、静かで、貧しい中での出来事でした。その中で、大きなメッセージの一つとわたしが思っていることがあります。それが何かといいますと、今風に表現いたしますと「コミュニケーション力」です。

現代では、コミュニケーション力の不足からくるさまざまな問題があるといいます。その中でも、人を避け、一人閉じこもってしまいがちになる「引きこもり」的な現象が、人のまともな成長を妨げている要因になっているのでしょうか。特に成長して働く年齢になってきても、職に就くことができない人が現実にいらっしゃると聞きます。

そのような人を対象に、研修会とか体験学習会とかが会社により、または、民間の団体によって開催されています。いろいろな目標のとらえ方があるかもしれませんが、その一つの視点を考えますと、「はたらく力」をどう見るのかということがあるでしょう。働くうえで必要なのは、パソコンや接客方法などの資格やスキルだけではないでしょう。周囲の仲間と良好な関係を築きながら円滑にやりとりをしたり、スムーズに仕事を進めるために計画立てをしたり、自身をもって前向きに業務に取り組むなどといったソーシャルスキルも不可欠になってきます。つまり「コミュニケーション力」です。

それは、マリアの「コミュニケーション力」

この力を習得して、人としての自分の成長にも大いに役立てたいものです。
わたしたちの周りにはいろいろな人が存在しています。いい意味でも悪い意味でも気になる人、自分にとって嫌な人、邪魔になる人。しかし、他の人にとっては、同じ人が好まれる人、助けになる人であったりします。

イエスさまにとっても明らかにそのような人がいました。それでも、イエスさまは嫌な人でありながらも、最後まで交流し、ゆるされるのです。そして、どのような人をもふところに迎え入れてくださいます。この姿は、イエスさまの誕生出来事にあらわれているといえます。その大きなきっかけとなる「マリアへのお告げ」で、マリアさま自身も、わたしたちに示されます。「仰せのごとく我になれかし」です。

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この言葉をじっくりと感じてみます。み使いガブリエルは言います。「恐れることはないマリア、あなたは神の恵みを受けている」と。どんな恵みを受けたのでしょうか。つまり、神がマリアさまに目を留められた、そして、声を掛けられたというのです。目をかけられたのです。その具体的な表れがみ使いガブリエルのお告げでした。マリアさまはエリザベト訪問の際に言われます。「主が、身分の低いはしために、目を留めてくださったからです」と。(ルカ1章48節)

マリアは自分への神の関与を感じ、信じた

マリアさま自身は、しっかりと神のご自分へのかかわりを意識し、神とのふれあいを感じていたのです。恵みとは、神がイニシアティブをとって「わたし」と関わろうとしている姿に気付いて、その関係の中にわが身を置くことといえるのではないでしょうか。すなわち、絶えず神に声を掛けられ、神とのつながりを持とうとされる神に「フィアット」と答え続けられる自分でありたいですね。それも含めて祈り願いたいです。

(注)フィアットとはラテン語のfiatで、日本語の直訳は「なれかし」。

イエスさまの救いの業は、一人の女性の一言で始まり、それは分け隔てのない無限の広がりをもった「フィァット」でした。わたしたちにとっては、この上ないありがたいことです。が、その「ありがたさ」が、わたしたち一人ひとりに伝わっているのでしょうか。

神はわたしたちを招かれます。わたしたちは神を必要としているのでしょうか。必要としなくなった時、いちばんひどい病気にかかっている、と聖マザー・テレサはおっしゃいます。

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