年間第18主日(A年)の説教=マタイ14.13~21
2014年8月3日
どこの国でもそうなのかはわかりませんが、入学試験、入社試験、また、その類の出来事を前にしてよく言われることは、「自分を信じることだ」ということばです。「自分の力を信じて臨みなさい」と励まされます。
一方で、外国の方によく見られる光景ですが、陸上競技、水泳競技等、スタートする前に十字を切る選手をよく見かけます。神の加護を願っている姿でしょうか。
いずれにしましても、何かいいものを期待しての励ましのことばだし、十字を切る姿であろうと思います。それは優勝です。双方に多少の違いはあるにしても、自分以外の誰かに励まされ、誰かにお世話になっているのです。
「自分の力を信じなさい」という励ましだって、「自分の力」があるとしたら、誰かの応援があっての「力」でしょう。自分一人で培った「力」とは言い難いです。つまり、「自分の力」というものは、他者の力、支援があればこそ威力を発するものであるといえます。このことをわきまえたうえで、多くのことに従事したいものです。
今日の福音は、ここに焦点が当てられているようです。なんとも不思議な出来事が起きました。この話を通していわれていることは何でしょうか。
この話の真っ只中にいるのは群衆ではなく、弟子たちです。この弟子たちにイエスさまはいわれます。人里離れたところまでついてきた群衆を「あなたたちが、もてなしなさい」と。ついてきた群衆は、何も物質的な意味だけでなく、心の飢え、渇きに悩んでいる人びとでした。
弟子たちにもその事は伝わっていたのでしょう。だからこそ、「群衆を去らせてください」と頼んでいます。同時に、この依頼は、弟子たちは何もできないことをも意味しているといえます。手元にあるのはパン五つと魚二匹です。この時、自分たちがいかに無力であるのかを自覚できたのではないでしょうか。この気付きに目覚めさせることが、イエスさまの意図したものであったということができるでしょう。
弟子たちは、イエスさま亡き後、教会の指導者となる人びとです。指導者となる人は、自分の無力さをよく知っておく必要がありますよ、というメッセージを送られているのではないでしょうか。
「指導者」として成り立つのは、意味があるのは、イエスさまと一つになる時です。このことをわきまえていなさいというのが、今日の福音であるといえます。その人の欲のおもむくままに行動する時、「独裁者」の存在しか見えてきません。奉仕者の姿ではなくなります。
イエスさまのみが、わたしの存在の根拠であります。
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