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四旬節第5主日:人に石を投げる代わりに、恵みを注ぎ続ける神に向かおう

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四旬節第5主日(C年)の説教

2022年(C年)説教の年間テーマ=「弱き者を救う神」

四旬節第5主日(C年)の説教=ヨハネ8・1~11

2022年4月7日

いつの時代にも悪徳業者、悪いことを企む人はいるものです。「悪さ」の中身はそれぞれに異なっていても、共通して言えることは、相手のちょっとした心の隙を突いてくるということでしょう。

悪徳な業者が次々と新手口を繰り出す昨今

「引っ越し日当日、20代男性のもとに換気扇フィルターの購入を勧める業者が来た。管理会社と関連があるよう装い、『居住者はみんな契約している』と説明。男性は約3万円で購入したが、後で管理会社に確認すると無関係だったとわかった。新築マンションに引っ越した20代女性は防カビ工事を勧められ、約6万円を支払ったが、管理会社に確認して騙されていたことが判明した」(南日本新聞2022年3月28日朝刊)という訪問販売トラブル報道がされていました。

年度初めは、進学、就職、転勤等により、新しい地で新たな生活が始まる時でもあります。不慣れな土地で心身ともに疲れ果てているところに、悪徳業者の手が伸びてくるのです。

訪問販売に限らず、振り込め詐欺にしましても「犯罪?」を考える人たち、とても頭の切れる能力ある人が多いのではないかと思ってしまいます。よくぞ新たな手法、やり方を考えるものである、と思ってしまうわたしがいます。このような様々な手口を考えるのであれば、何かいいことをする、手伝える道を考えてはどうかと考え込んでしまうのです。

いじめ対策では新たな体制が構築されるが

一方で、まったく違った分野で起きる出来事なんですが、学校において、また家庭において発生する「いじめ」「虐待」により、亡くなる人が多いです。被害者がこどもであったりする場合が多いような気がします。その度に、問題解決に時間がかかり、ある時には責任のなすり合いとまではいかなくても、責任を回避したがる姿そのものに、なんとも醜さと憤りを感じる時があります。

そして、何かといえば新たな体制、組織を立ち上げたりします。それによって解決への努力に取り組んでいると納得させているのでしょうか。大事なのは組織を作ることだけではなく、人です。「事」を起こすのは「人」だからです。組織は、作ればそれだけ規則に振り回されてしまいます。マニュアルが作られ、マニュアル通りの対応が優先されてしまいます。一度、規則ができ上ってしまうと、改変するのが大変でしょう。過去の事例が証明しています。向かうべき相手は、いつも「人」です。

「血の通う」防犯、再発防止策を願いたい

この度、さつま町(鹿児島県)に児相を新設するようになったと報道されています。これは、2019年8月に亡くなった鹿児島県出水市の女児(4歳)の事件を踏まえての虐待対応の強化と再発防止策の一環だといいます。(南日本新聞2022年3月26日朝刊) やはりここで動くのも「人」です。解決するのに、組織をより良いものとして生かしていくのも「人」です。人と人とが向き合ってこそ、よい結論に達するのではないかと、・・。願わくは、組織倒れにならにように、血の通った温かい動きが実現しますように。

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今日の福音書では、姦通の現行犯でつかまった女性の話が朗読されます。この情景の背後には、律法学者たちの悪意をうかがい知ることができます。それというのは、彼らにとってイエスは、いわば、人生の宿敵といえる存在だからです。世の指導者である彼らは、イエスから痛烈に批判され続けなのです。例えば、偽善者、形式主義者、盲目の案内者、白く塗った墓等、これらの表現はイエスが彼らに投げつけた糾弾の言葉です。イエスに完膚なきまでうちのめされてしまっていたのでした。そこで、イエスを失脚させる機会を狙っていたのです。

法や規則の整備を超え、人を生かすには

姦通の現場を捕えられた女性は、律法学者たちにとって、自らの望みを叶えさせるための手段に過ぎなかったのです。確かに、姦通罪はモーセの律法によれば石殺しの刑にあたります。もしイエスが「ゆるしなさい」といえば、イエスはユダヤ社会とモーセの権威を否定することになります。逆に、石殺しの刑を承認すれば、イエスが今までいたるところで説教してきた内容を否定することになります。さあ、イエスはうかつに返事ができない状態に置かれました。これで律法学者たちはイエスを追い込んだと確信したのではないでしょうか。その証拠は、イエスは即答しなかったということです。当然のこと、律法学者たちはイエスの心のうちを分かるはずもありません。

そこで律法学者たちは、かがみこんで地面に何かを書いているイエスにその答えを迫ります。そしておもむろに「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と言われます。告発者たちは自分たちの罪を棚に上げ、あたかも神の側に立っているかのような振る舞い、裁きをこの女性にくだそうとしているからです。そして、再びかがみこんで地面に何かを書き始めます。

神は人を支え、救おうと働きかけている

わたしたち一人ひとりの生きてきた歴史は、「ゆるし」があってこそ続けられてきた日々だったのではないでしょうか。他者を傷つけ、ある時には不幸に陥れてしまったことがあると思われる人はいらっしゃるでしょう。自分はゆるしを受けながら、他の人には厳しく、裁くということは、何かおかしくないでしょうか。イエスはそういわれています。

イエスの言葉は、その実、安易に裁きたくなる人びとに、自分の現実に目を向けてご覧なさいと促しているといえます。そして、再びかがみこんで何かを地面に書き始めた行為には、そこに集まった人々に、神の前にたつよう促し、そうなるようにと「時」を与えてくれているのです。非難していた「正しい人々」は一人また一人と去っていくことができました。

最後はなんといっても「人」です。向き合うことです。その間に、神はそっと支え、救おうと働きかけているのです。神は、人間のすべてを知りつつ、石を投げる代わりにゆるしの恵みを注ぎ続けておられます。今も、これからも。

 

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