年間第8主日(C年)の説教=ルカ6・39~45
2022年2月27日
四コマ漫画「コボちゃん」にヒントを発見
植田まさしさんの「コボちゃん」四コマ漫画に次のようなものがありました。(讀賣新聞西部本社2022年2月16日朝刊)
お母さん「ちょっとまって、またなにかやった?」
なぜか自分より他人のことが気になりがち
なぜだかわかりませんが、人は、自分よりも他人のことがどうしても気になり、ことによっては何かを要求したくなってきます。それも、自分にはできそうもないような要求をしがちになっていきます。言いかえれば、自分の欠点よりも相手の欠点を見てしまいがちになるのです。自分の性格の荒々しさよりも、相手の、他人の荒々しさを咎めたくなってくるのです。自分の未熟さを棚に上げ、相手の未熟さだけを批判し、ゆくゆくは非難、中傷してしまいます。
これがわたしたちの今の現実の姿なのではないでしょうか。そして、そうしたからといって、いい結果、喜ばしい実りが生まれ出てくるわけでもないのに、・・。よくよくわかっているのに、そして、他人にはやさしく接しなければ、他人の未熟さに寛大にならなくては、と心に言い聞かせても、なぜか同じことをしでかしてしまいます。人間の傷つけ合う姿、中傷合戦が、日常、当たり前のごとくにくりかえされていくのです。
時代が進んでも、本質的に人間はそうそう変わるものではないですね。ということは、この現象は、人間の根源的な弱さ、根源的なもろさ、醜さであるということができるからです。つまり、人間自らが、どうしようにも変えることができないということでもあります。一人ひとりがそれぞれの個性を発揮し、たまたま否定的な方向に走った時、ときには、その状態に気づくこともできないほどにのめり込んでいくことがあります。できごとの規模が大きければそれだけ深刻です。
「他人に厳しく」は人間の根源的弱さから
イエスはどうだったでしょうか。人間が持っているこの醜さ、欲望ゆえに、十字架につけられてしまったのでした。それだけに、人間の根源的な弱さ、あさましい姿、その実際を、よくよくご存知でした。その証拠にイエスは「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23章34節)と、十字架上でおん父に祈られます。人間のもろさをご存知で、しかも、自らの力で、すぐには変えることができないということも知っておられました。
このイエスの姿、まなざしは、限りなくわたしたち人間を大切に思い、だからこそ、根源的なもろさを抱え続けて生きる人間一人ひとりにむけられていたのです。そして、このようなイエスの心が、わたしたちにとっては心地よいはずなのに、・・どうでしょうか?さらに、何度も立ち直る機会を、悔いる限りお与えくださるのです。だから、わたしたちはいつも元気で、楽しく、希望を膨らませながら生きることができるのです。いわゆる、わたしたちの進歩、成長はいつもゆっくり、ゆっくりです。どうしてそうなのかは、わたしたち一人ひとりが一番わかっています。でも、そうさせていただいていることに、わたしたちは感謝し、お礼を感じているのでしょうか。
自分には厳しく、他人にはやさしくできれば、また、他人の未熟さには寛大であり続けることができれば、家庭も社会も、ひいては世界も平和と温かさに満ちたものになっていくのでしょうが、・・。わかってはいるんですが、その根源的な弱さ、もろさが勝ってしまうのです。これは日々、少しずつ訓練するしかないですね。希望をもって、確信をもって。
「目の中の丸太」を取り除くためには…
あれこれ言っても、わたしたちの人間社会では、愛するがゆえに、自分のことはさておいて、人のことに気配り、目配り、心配りする場合があり得るでしょう。特に、親子の間柄では。コボちゃん漫画の場合はそれが言えますかね。でも、親の生きざまを悟られる年齢に、子どもが達していればどうでしょうか。それは親子関係の密度の濃淡によるでしょうか。
今日の福音書の要は、「目の中の丸太」です。この言葉は、人の内面に巣食う闇、すなわち、神の働きかけを拒むかたくなさを表現している言葉です。子どもたちにはこれがありません。少なくとも本人には意識されていません。コボちゃん漫画のコボちゃんのように、自分の中に感じたままに、それを外に出すことができる、裏表のない姿に、おもんばかる心がプラスされると申し分ないのではないでしょうか。
その丸太を除くためには、先ず、いつも働きかけている神に身を開くことです。自分自身の努力の前に、神の働きかけを素直に受け入れることです、とイエスは言われます。神の働きかけの受け入れを拒否している「わたし」の内面の「闇」は、はたして何でしょうか。
無理とはわかっていても、・・子どもに倣いたいですね。
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