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四旬節第3主日:「お蔭さまで~」は相手の中にイエスの姿を認めること

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四旬節第3主日(B年)の説教

2021年(B年)説教の年間テーマ=「新しい いのちの輝き」

四旬節第3主日(B年)の説教=ヨハネ2・13~25

2021年3月7日

「支え合う」精神の尊さを再確認した大震災

甚大な被害を引き起こした東日本大震災から10年です。この間も地震や豪雨などによる災害は各地で相次ぎ起こり、また、時間の経過とともに、多くの地域で住民の高齢化も進みました。以前は、日常的に行われていた「ご近所の支え合い」が、今の時代には、日ごろの、身近なできごとでなくなり、何か特別なことのように思われているのでしょうか。にわかにその取り組みの重要性が高まっているといいます。

便利さだけを追求していった先に待っているものは、利己主義であり、孤立感であるといえます。日ごろのあいさつに、「お世話さまです」「お蔭さまで・・」という文言があります。これは、日本人の中にある「人がいて自分がある」という日本人が抱く人生感覚ではないんでしょうか。事実、誰かのお世話を受けていると感じているからこそ、人をお世話したいと、ごく普通に思えている自分があるのでしょう。違うでしょうか!?

岩手県釜石市の東前町内会では昨年10月、日常生活や災害時に周囲の支えを必要とする人がどこに住んでいるのかがわかる「支え合いマップ」を作成しました。マップ作りは住民主体の草の根的な活動ですが、同市社会福祉協議会も支援しており、市全域の約3割の地域で取り組まれています。気がかりな人の情報を持ち寄り、地図に書き込んで共有するという仕組みです。(讀賣新聞西部版2021年3月1日朝刊)

あれから10年、世の中デジタル化が進んでも

同市は東日本大震災で津波による大きな被害を受けています。同町内会は約60世帯。震災前の3分の1だそうです。町内会長の佐藤和夫さん(72歳)は「7割ほどは高齢者だけの世帯で、地域を丁寧に見守る必要性が高まっている」と話しています。

一方、マップの作成にかかわってきた市社協の菊池亮さんは「地域の住民同士のつながりが分かることで、災害時などに孤立を防ぐ手がかりにもなる」と話しています。

世の中、デジタル化が進み利便性の高いものを追求していく生活が普通になってきましたが、人間、本当に困ってしまうと、頼りの綱はやはりアナログ生活なんですね。人間の心の琴線を揺らす細やかな動きは、何といっても「手作業」なんです。

一度失われたものは、再度その身に呼び起こすために、さらなる慎重さと忍耐力が要ります。しかし、日常的に、表に出る形としては失せたといっても、一人ひとりの中に、「支え合いの心」は残っているのですから、一人ひとりが自らの心に気付き、やる気になることでしょう。

神から託された人の生きる術は「お蔭さま」

そして、その動きは、ある困難さ、自己犠牲も伴います。少なくとも、自分がやりたいと思っていることをちょっと横に置き、一旦停止が必要になってきます。場合によっては、貧しさを体験することになるかもしれないのです。それでも、「お蔭さま」なのです。これが本来の人間の姿なのではないかと思います。それが神から託されたわたしたちの生きる術なのです。そして、人が喜ぶ姿を見て自分もうれしくなる奉仕が、「お蔭さまで、・・」「お世話になります」というあいさつとなって、わたしたち一人ひとりに、日本社会に定着しているのではないでしょうか。その時は、自分が持ち合わせている「自分らしさ」を捨て、その人の環境、ペースの中に身を置いている状態になります。普段に実感したいですね。

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イエスの生涯は、実にそうした環境、人間が置かれている境遇にその身を投じた日々だったのです。自分を派遣した父なる神に、あくまでも忠実であろうとした愛が、神殿から商人達を追い出したエネルギーだったのです。ごまかしのない神への情熱がイエスの心なのです。むしろ「ごまかし」に目をつぶっていることができない心なのです。

イエスの原動力は富や金ではなく、神への愛

また、この世の貧しい人々に快適な生活を提供できる力を持っているのに、敢えてわたしたちと同じ貧しさの中に生活する生き方を取られたイエスです。そのイエスが行動の原動力にしたのが、富やお金ではなく神への愛だったのです。

エルサレムの神殿は、過ぎ越しの祭りが近づきますとお祭り気分で周りは盛り上がってきます。地方からもたくさんの人が詣で、神殿はいっぱいになります。人々がたくさん集まるところでは、当然のごとく金儲けを企む人々が出てきます。そして、神殿での祭儀を利用してもうけを願っている商人が、神殿の広場の一角を占める結果になります。悪いことは、いともたやすくその広がりを見せてくれます。祭司までもが私腹を肥やすために商人たちと結びつくのです。宗教の世界に金銭の価値観が入ってくると、いつの間にか商人根性により支配されていくようになります。

はじめはもっともらしい理由から始まります、「お金も必要なんですよ」と。そして、そのことを新しいメッセージとして人々に語りなおすことができます。しかし、宗教的生命の腐敗はこうした口実から始まり、じわじわと内部に浸透していきます。イエスは神殿が宗教的生命を失っている姿に激怒したのです。

建物としての神殿にも宗教的生命が漂っています。厳かな雰囲気、手を合わせたくなるような祈りの雰囲気が建物そのものから伝わってきます。神への純粋さを失った世界に、もう一度神を敬い、礼拝する神殿となるよう、愛の火を投じようとされたのでした。

「お蔭さまで~」の生き方の究極の相手は、イエスご自身なのです。つまり、この挨拶の言葉に隠れている思いは、イエスをその人の中に見ているんだということです。それを自分が意識しているか否かは定かではないけど、・・。意識できることを願って。

 

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