復活の主日(C年)の説教=ヨハネ20・1~9
2019年4月21日
広辞苑による復活とは、いきかえること
広辞苑第7版で「復活」を引くと、「①いきかえること。よみがえること。蘇生。②いったんやめたものを、再び用いること。③ユダヤ教・キリスト教などで、人間が肉体の死後、神から新たな生命を授かること。特にイエス・キリストの復活を指す」とありました。
キリスト者の信仰の中心は十字架と復活
今日はイエス・キリストの復活の主日です。そして、わたしたちキリスト信者にとっては、信仰の中心になるものが十字架と復活です。
わたしたちは聖週間を過ごし、主の受難の中身をしっかりと見つめ、黙想してきました。つまり、イエスの苦しみと十字架上での死は、「わたしたち」人間のためだったということです。あくまでも、神のイニシアティブによるわたしたちへの神の愛の極みが「十字架の死」というかたちを取ったということでした。神自ら、救いのプログラムを設定されたのでした。そして、イエスはその神の計画に心からの従順を示されたのです。
「乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように この人は主の前に育った。 見るべき面影はなく 輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。 彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。 彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」。(イザヤ書53章2~5節)
イエスは、イザヤ書に描かれているメシアの姿そのものだったのです。人として考えた時に、こうした現実を目の当たりにして、希望を抱くことができるでしょうか。墓に向かっていた婦人たちには「失望観」しかなかったように思います。イエスがその生前、奇跡をおこなった力強さも、人をひきつける魅力も、彼女たちの中から消え失せてしまったのです。彼女たちはイエスの体に香料を塗るため、最期の別れを告げるために墓に来たのです。死者のための場所、それが墓です。
ところが、「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。その方はここにはおられない。復活された」(ルカ24章5~6節)と、輝く衣を着た二人の人が彼女たちにあらわれて告げたのです。
それは、イエスの死が、「死」ではないという啓示でした。
十字架の死が、実は「死」ではないとは
失望感漂う心に、また、悲しみにつつまれた心に新たな希望を与え、かり立てるのが、まさにキリストの「復活」なのです、という知らせ、啓示なのです。そして、人生は、深い苦しみ、悲しみの中にあっても、それでも、希望に繋がっていくのです、という啓示なのです。
どんな辛さの中にあっても、その状態は意味があって、無駄に終わることはないという確信、信じる心が大事です。この信仰は、父なる神がわたしたち一人ひとりを心に留め、しっかりと面倒を見てくれているという確信から育ってきます。彼女たちは生前のイエスとその言葉を思い、にわかに力を得たのです。
失望を希望に変える「復活」の根拠とは
わたしたちの日常の人間関係も、そのつながりの深さは、お互いの間で同じように重ねられていくのではないでしょうか。愛し愛され、信頼し信頼される仲で・・。わたしたちが希望しつづけられる根拠はどこにあるのでしょう。希望する勇気を持続できている根っこは何でしょう。
パウロは言っています。「死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。『最初の人アダムは命のある生き物となった』と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。 最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。…わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。…死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります」。(コリントの人々への第一の手紙15章42節~49節)
蘇生ではない、新たないのちへの始まり
確かに、麦であれ、他の穀物であれ、ただの種粒を蒔くのです。その種は一度死んで、実ってくるときはまったく違ったものに変えられていきます。このように、パウロの説明によると、「復活」は元の体への単なる生き返り(蘇生)ではないということになります。つまり、「最初の人アダム」に属していたわたしたちが「最後のアダム」に属するものに変えられるという信仰だといえます。広辞苑の③の説明はこのことを指しているということになるのでしょうか。
イエス・キリストの復活によって、わたしたちにはゆるぎない希望と力、信仰が与えられています。今の時代だからこそ、なによりも必要とされ、人間にしかできない、互いに「信じあって生きる姿」に目覚めましょう。
コメント