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主の洗礼:希望と確信を持つために、イエスに倣い節目での祈りを大切に

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2019年説教の年間テーマ=「召ばれています、いつも」

主の洗礼(C年)の説教=ルカ3・15-16、21-22

2019年1月13日

意識的な言動と無意識のそれとの違いを考える

「この小さな者の一人をつまずかせる者は、首にロバの碾き臼をかけられ、海の深みに沈められるほうがましである」(マタイ18章6節)というイエスさまの言葉を、一人ひとりが自分の生き方の中で噛みしめてみたいものだと思います。

わたしたちの日常生活の中で、意識しながら行動すること、いつの間にかやってしまったな、ということなど、様々な言動があります。無意識の中でやってしまったことは記憶に残っていませんが、意識的に行ったことは悔やまれることが多いような気がしてなりません。なぜ悔やまれることが多いのかとわが身を振り返ってみますと、他者との関係で「こうしてあげればよかった」とか「こう言うべきだった」とか、必ずと言っていいほどに、相手のことを考えた時の自らの振る舞いに関わっています。

つまり、直に相手にした方が関わっていることになります。そこにいない方々との場合はどうでしょうか。実感としては、どうしても希薄になりがちです。テレビ、新聞等を通して知り得た情報の中で「人」に関する話題の場合です。

例えば、今でも、ありうることなのかもしれませんが、‥生活保護を受けている方々に関する報道です。

かつての生活保護家庭へのクーラー設置の制限

最近の夏は、かつて、なかったほどの暑さに見舞われます。特にここ数年は、「就寝中のクーラーはタイマーで」から「睡眠中もクーラーを」に変わってきたように思います。熱中症対策です。寝ていても熱中症になることはあるんだと聞きますと、どうしても熱中症になることは避けたくなります。というよりも、寝苦しくて先ずは眠れないというのが実際でしょう。電機業界もクーラーがよく売れ、非常に潤ったといいます。クーラーなしで我慢してきた人々が、もう我慢できなくなってきたことは確実です。

それらの人々の中に、生活保護者のご家庭がありました。「生活保護法を受けている人にはクーラーは適当ではない」との理由で、ある自治体が一人暮らしのお年寄りの住まいから、クーラーを外させたという報道が、新聞・テレビであったことを覚えています。特にマンション住まいですと、夜になっても部屋の気温が40度以上になるといいます。そのため、そのお年寄りが脱水症状を起こし、病院に担ぎ込まれて初めて事情が公になったという出来事でした。

行政担当者の言い分、弁解は想像できます。「厚労省からの指導です」「自分たち下っ端の人間に、現場での自由な裁量はゆるされていない」「例外を一人にゆるしたら、しめしがつかない」と。

ルール優先では人間が弾き出されることもある

社会の決まりは、人と人とがともに平和に暮らし、生きるための最低限のルールであると思います。決める時は崇高な意義と目標をもって決められたのに、一度決まってしまうと、独り歩きしてしまって、その運用を間違えると、決まりを盾にかけがえのない一人の小さな人間をはじき出してしまうことになってしまいます。

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こうした現象は、安息日に病人を癒すキリストと律法学者たちが対立する福音の話と重なり合ってきます。その時のイエスさまの言葉が、冒頭に記したものです

ひとり一人の、かけがえのない人生こそが大事

共同体の実態を見つめ、対応していくことは大事です。が、一人ひとりのかけがえのない人生があって初めて、共同体も活気づきます。楽しく、活気ある共同体の始まりは一人ひとりのあり様(よう)にかかっているのではないでしょうか。その中心にあるのが、信仰者にとって「祈る姿、心」だといえるでしょう。ぶれないためにも。別の表現をすれば、神に向かう姿、その心の持ち方が新しさを生み、共同体に新たな活気を注入していきます。

「イエスも洗礼をお受けになった。そして祈っておられると天が開かれ…」という今日の福音書の表現は、イエスの受洗そのものよりも、「祈るイエス」に注目しているといえるようです。そして、新しいことが始まったのです。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」というメッセージが告知されます。つまり、イエスが祈ることによって、祈る時に、わたしたちは神に繋がれていくという新しい世界がはじまるのです、とルカは訴えているのではないでしょうか。

自信をもって生きるにはその場面ごとに祈りを

今、わたしたちが信仰者として、自信をもって現実を生き抜こうとするとき、「祈る」ことなしにそれはできないよ、と今日、呼びかけられています。この世で、理不尽な出来事がつづく中、それでも希望と確信をもって前に進んで行くためには、「祈る」ことが大事ですよ、と訴えられています。イエスがその模範を示しているではありませんか、と。祈っているときに新しいことが始まるのです。それがわたしたちの目に見えなくても、確かなのです。

生活の大事な時、辛い時、楽しい時、嬉しい時に祈っているでしょうか。願っているでしょうか、心底から。そこから、一人ひとりに対する温かさ、配慮する心が生まれてきます。そして、その場に合った新しい何かが始まるのです。

主の洗礼は、このことを今日(きょう)のわたしたちに告げています。

【1月13日】主の洗礼(C年)の聖書はこちら

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