『年間第33主日』の聖書と説教はこちら

聖家族:神の意向は、常に現実の中で示されていることを認識しよう

この記事は約4分で読めます。

2019年説教の年間テーマ=「召ばれています、いつも」

聖家族(C年)の説教=ルカ2・41~52

2018年12月30日

子育てには親子の関係が大きく影響する

わたしたちはこの世に生を受けて以来、成長していく過程のなかで、いくつもの「節目」を体験しながら成熟していきます。この地球上に生きる全ての人に、等しく同じことが言えます。誕生の後、ことばにはならないけど、それらしい音を発する時期を迎えます。そして「ハイハイ」するようになり、身の回りの、ありとあらゆるものに興味を示し、自分の近くに引き寄せようとします。立って歩き始めます。それにつれて体も大きくなっていき、力がつき、ことばも表現力が豊かになり、語彙も増えます。ますます自己主張ができるようになっていきます。

なんといっても、子どもの成長の節目を実感できるのが両親です。それを後押しするかのように、社会との接点においても、節目の催しものが挙行されます。七草、入園式、入学式、卒業式並びに成人式等、・・。いろいろなたくさんの体験をしていく過程で、子どもは親の意向と違った方向に走っていくことがあります。というより、子どもの個性が身につき、自分らしさを表現していきます。その根源には、それまでの親子の間における子育てのあり方が影響しています。

その時、子どもは「るんるん」気分でいますが、親にとっては一抹のさみしさを禁じ得ないのではないでしょうか。いわゆる、子どもの「親離れ」です。ところが、子どもの心境だって実のところ寂しさはあるのです。その時には、「喜び、嬉しさ」の気分が勝っているだけなのです。あとで振り返ってみたときに分かるものです。親には言いませんが、・・。

「キレてしまう大人」が多くなったらしい

しかし、さみしいだけではなく、最近では「キレてしまう大人」が多くなったといいます。誰にでもある現象ではないかと思うのですが、それが子どもに乗り移っているのではないかと思われます。

次のような新聞記事を発見しました。(讀賣新聞大阪本社、2018年12月24日朝刊)

保育園で、感情をコントロールする学習

「娘が通う保育園には月一回、自分の感情をコントロールするための学習の時間がある。こういう時、何を感じるかな。それは怒ってるのかな—–。感情にそったシミュレーションを行う。怒りを感じたときはどうしようか。胸に手を当てて深呼吸しよう。そして 自分の感情を言語化して理解する。『今、わたしはイライラした気持ち』。落ち着くまで繰り返し、気持ちをコントロールするらしい。

キレる子どもが増えて先生たちも切実なのか。保育園児にまでこんなことを教えなきゃいけないとは…。そう思っていたある日。保育園から帰宅後30分で部屋を散らかしまくっている我が娘。年長になり、かんしゃくこそ起こさなくなったものの、ハチャメチャは相変わらずだ。ママは仕事が終わって息つく暇なく、せっせと晩ごはんの用意をしているというのに。あぁ、もう!なんて思っていたら、娘の散らしたおもちゃを踏み、足の裏に激痛が。『なんでこんなに散らかすの―!!すると娘が言い放った。『ママ、胸に手を当てて! 深呼吸して自分の今の気持ちを言って』『はぁ!?』『今、わたしはイライラした気持ち、はい!』。促されて口にする。」『今、わたしはイライラした気持ち』。イライラが収まるまで繰り返すように指示が飛ぶ。『今、わたしはイライラした気持ち、今、わたしはイライラした気持ち』。娘があきれて言う。『まだイライラしてんの!?』。そう言われ、思わず笑ってしまった。

確かに今の世の中、キレるのは子どもだけじゃないよね。もしかして、感情のコントロールが必要なのは大人であるわたしのほうかもしれない。なんて、ふと思うのでした」。

聖家族:イエスが十二歳になったときも、両親は慣習に従って都に上った
聖家族(C年)の聖書=ルカ2・41~52 イエスの両親は過越祭には毎年エルサレムヘ旅をした。イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。

今日は聖家族の主日です。マリアさまも同じく子育ての真っ最中です。親子のかかわりが示されているひとこまです。残念ながら、人間の目からしますと、冷たいさびしいかかわりに見えます。いうなれば、親離れの場面であるといえないでしょうか。さらに、イエスさまご自身の個性が発揮され始めた瞬間でもありましょう。

両親はイエスの言葉の意味が分からなかった

お告げを受けたときのマリアさまにさえ、イエスさまがどのように育ち、変わっていくのか、具体的な成長過程については何も知らされてはいないのでした。だから「両親には、イエスの言葉の意味が分からなかった」のでした。「仕打ち」に見えるようなイエスさまのことばに対して、マリアさまは「キレない」のです。むしろ「これらのことをことごとく心に留めていた」のです。

こうした親と子の関係が、後のイエスさまの言動に、実りとして発揮されてきます。「家庭」は親が子に、自分が持っている生きることへの知恵と財産を分かち与える尊い場なのです。

一人ひとりの人生で、具体的な動き一つひとつの中に、神のわたしたちへの意向、み旨を見出すことができるのです。そして、それは永遠の救い、神へとつながっているのです。

マリアはキレずに、ことごとく心に留めた

実に、イエスさまの「冷たい」言葉は、ご自分の使命に目覚めた羽ばたき、独り立ちの瞬間でした。「キレる」ことなく、五感を働かせてしっかりと少年イエスさまの飛びたちを見つめ、後に続きましょう。

わたしたちの新たな年への旅立ちです。

【12月30日】聖家族(C年)の聖書はこちら

コメント

タイトルとURLをコピーしました