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年間第30主日:祈りは、他者との関係から生まれてくる「わたし」の奉献

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年間第30主日(C年)の説教=ルカ18.9~14

2013年10月27日

寄り添うイエスわたしたち人間が持っている国民性、民族性は、時として、利害関係の原因、始まりとなることもありえます。本来は、それとして恵みの表れであるはずなのに。その違いが、人間お互いを成長させてくれるエネルギーであると、わたしは実感していますが、・・・。

「諸宗教対話」「民族間対話」という動きがありますが、大いに深め、高めていければこの地球上から争い、いさかい等はなくなるのでしょうが、・・・。実現してほしいですね。社会が進化し、便利になっていくにつれて、人間性が貧しくなっていくようでさびしいですね。一人ひとりの育ちの環境は、とても尊いものです。だからこそ、育ちの違う相手を非難するための道具にしてはいけないのではないでしょうか。

祈るために神殿に上った今日の福音書の二人。一人はファリサイ派の人、もう一人は取税人です。それぞれに違った「世界」で育ち、大人になりました。当時の社会感触からしますと、ファリサイ派の男はみなから認められる優等生な生き方をしていたのです。彼の感謝の祈りの中身に間違いはありません。しかし、感謝の祈りにしては、どこかすっきりしない内容です。立派すぎて(?)、どこかひとりよがりの祈りになっていないでしょうか。つまり、彼の背後にいる取税人の排他をにおわせます。

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祈りは、他者との関係から生まれてくる「わたし」の奉献です。それが感謝となり、賛美となり、嘆願となります。確かに、ファリサイ派の祈りは、人との関係の中から生じた祈りに変わりはありません。しかし、それは自画自賛です。普通だったらおこがましくてできません。祈りながらどこか、くすぐられる気分になりはしませんかね。

それに比べ、取税人は顔もあげず、罪深い自分をあわれんでください、とだけ訴えます。それ以上は要らないのです。祈りは実に単純、簡潔、飾り気がありません。今の自分を伝えるのにそれ以上の言葉はうそになるとでも思ったのでしょう。「罪深い自分」の中身は、自分と同じ境遇にある人びとをも代弁しているかのようです。隣人を責めるでもなく、ひたすら自己のみじめさをさらけ出します。

神の心をよく知っていた取税人といえるような気がします。いと小さきものを放っておけない神のなさり方を熟知していたのでしょう。このような人は神のやさしさを学び、体験した方といえます。そうなるために、隣人に対する「わたしの心」どうなんでしょう。

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