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年間第3主日:神の「お墨付き」は絶対!イエスの招きに自分を託そう

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「神への道標」

2018年説教の年間テーマ「神への道標」

年間第3主日(B年)の説教=マルコ1・14~20

2018年1月21日

人間の社会では、時代の流れとともに、科学、技術の向上、発展にともなって新たな問題が次から次へと発生します。人間にとっていいこともあれば、そうでないこともあります。その中で、「自動車の電動化」「自動ブレーキ機能搭載」の動きもその一つでありましょう。

「お墨付き」について考えてみる

国土交通省は、自動車の自動ブレーキ機能を評価する新たな基準を2018年度から導入するということです。(讀賣新聞大阪本社、2018年1月11日朝刊)一定の基準をクリアした車に、国が「お墨付き」を与え、「安全性能」の底上げを狙っているものです。

すでにご存知のように、自動ブレーキは、自動車に搭載したカメラやセンサーが障害物を認識し、自動で減速して衝突を回避したり、事故の衝撃を軽くしたりします。近年、高齢者が運転する車の事故などが相次いで、安全性への意識が高まり、普及が進んでいます。国交省によりますと、これまでの評価対象車は、装備が充実している最高グレードの車のみとなるケースが多かったといいます。その乗用車(新車)の搭載率は2012年に4.3%でしたが、16年には66.2%に達しています。政府は20年には90%に達するような目標を掲げています。これにつれて、メーカー側は商品の安全性をアピールするために、より幅の広いグレードの車種について申請してくるのではないかと国交省は見ているということです。

品質などに対して保証を与えるもの

そこで、国の「お墨付き」というのは、どのような意味でしょうか。車の「安全性」の向上を願っての行動とはいっても、即、安全が保障されるということではないでしょう。「お墨付き」の語源は何でしょう。

その意味は、権力や権威のある人が何かしらの品物に対して保証とか許可を与えるという意味で使われます。「お墨付き」は、古くは室町時代まで遡ります。昔は将軍とか大名が手柄を立てたりした臣下に領地を与える習慣がありました。その領地を後日の証拠として保障・確認する文書を指していたのだそうです。その文書が「お墨付き」と呼ばれた由来は、署名や署名を図案化した「花押」が、墨で記されていたことによります。(語源由来辞典)

現実の生活の中で、わたしたちの日常が不安になればなるほどに、より安全な、安心できる何かにすがりたくなります。人のもろさが露呈され、自分を含めて、あやふやになってしまいます。

日常が不安になるほど保証を求める

今日の福音では、イエスさまの福音宣教の始まりの状況が記されています。「ヨハネが捕えられたのち、・・」イエスさまが登場します。ヨハネは、当時のユダヤ人にとって希望の光だったのではないでしょうか。

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その当時、ガリラヤを統治していたのは残酷なヘロデ王でした。その彼から安心できる社会、日常生活の暮らしを期待することはできなかったのです。その中にあって、唯一人々の心をとらえる生き方をしていたのが、洗礼者ヨハネでした。その彼が捕えられたのです。民衆はどん底に追いやられてしまいました。生きることの苦しさと辛さ、貧しさにあえいでいた人々からしますと、大ショックだったのです。より深く、ひどく民衆を闇の中に追い落としてしまった出来事、それが「ヨハネの捕縛」だったのです。

イエスは「神の国は近づいた」と宣言

こうした状況の中にイエスさまが現れます。「時は満ち、神の国は近づいた」と力強く宣言なさったのです。人間の心身の貧困がひどくなればなるほど、神に近づくようになるという現実を、彼らは体験することになります。ユダヤ人はこれまで、待つことに希望を抱いてきました。

その間、自分の人生の重荷を引きずりながらも、救いへの希望のうちに歩むことを学び、代々引き継いできたのでした。その救いのすべてが、今や、イエスさまの中にあるのです。「その時」が満ちたのです。もう待つことはないのです。網を捨ててイエスさまについて行った弟子たちも「行動する」のみです。

神の「お墨付き」は間違いなく絶対

今のわたしたちに求められていることも、「動くこと、託すこと」なのです。観念の世界で終わるのではなく、動き始めることです。神からの杯(恵み)を飲み干すことです。神からの招きにわが身を託すこと、「賭ける」ことです。何故って、イエスさまの「お墨付き」があるからです。それは「神の国は近づいた」からです。

人の世界の「お墨付き」には、「絶対、完璧」はあり得ませんが、イエスさま、神の「お墨付き」は絶対です。安心できる恵みとして心身を託していけるようでありたいです。イエスさまがわたしたちに与えてくださった愛のすべてを受け、今度は、わたしたち自身が周りの人々に、その愛を与えていく信仰生活をめざそうとしているのでしょうか。自己内満足ではいけないのです。外に飛び立ちましょう。

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