
説教の年間テーマ=わたしのすべてを知っておられる神
年間第3主日(C年)の聖書=ルカ1・1~4、4・14~21
2025年1月26日
新聞紙面の「ひろば・論点」のページに読者の声が掲載されています。若い人・小中学生の投稿が、まとめて掲載されていました。毎回テーマが設定されているのかどうかわかりませんが、今回はどうやら男女の人権問題なのか、「男女」に関する内容のようです。
「若い目」・小中学生が感じたこと乃至は考えていることを原稿にしたため、ここに掲載されています。その中から引用してみます。(南日本新聞2025年1月20日朝刊)
「社会科の勉強で、明治時代の選挙権は、一定の税金を納めた25歳以上の男の人にしか認められなかったと知った。どうして女の人は投票できなかったのだろうと思った。
ネットニュースで男女格差の国別ランキングを見つけた。日本は156ヵ国中118位だった。治安もいいし、わたしは生活していて差別されている感じがない。順位はもっと上の方だと思っていた。明治時代からあまり変わっていないようだ。
自分の身の回りで男女差について探してみた。校長室の校長先生の写真は、49人中47人が男の人だった。・・・周りの人たちから「男だから」とか「女だから」」と言われることなく、誰でも好きなことができて、自由に活躍できる世界になってほしい。」
この原稿は伊関小学校(西之表市)6年生・畠もかさんの投稿です。彼女の原稿を読んで感じたのは、子どもたちの心はとてもまっすぐだな、ということです。だからこそ。わたしたち大人は、新たな感覚を自分のものにするために、こうした子どもの感性に学び、国民一人ひとりの中に根付いているかもしれない「男女格差」に関する負の感覚を一新していかないと、それこそ明治時代と何ら変わっていない、成長のない自分になっていくのではないかと危惧します。

きょうの福音で、イエスは初めてふるさとナザレの会堂において、ご自分を公にユダヤ人の前に示されます。つまり、会堂とは、人々の宗教性が自由にしかも真剣に開示され、お互いに宗教的にゆたかにしあうことのできる場でありました。そのための行動として聖書を朗読し説教者になったのです。そしてご自分を開示されました。
朗読箇所としてはこれまでも何回となく読まれてきたはずです。きょう会堂に来ているユダヤ人にしてみれば、今までと同じような朗読者の一人としてイエスを見ていたのではないでしょうか。ところが、聖書を係りの者に手渡した後のイエスの第一声に、皆は驚きを隠せませんでした。「この聖書の言葉は、きょう、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と。これは救いの到来を告げる宣言です。イエスは「福音」すなわち「主の恵みの年」を告げます。「主の恵みの年」とは「ヨベルの年」のことです。
ヨベルの年とは、「旧約聖書では、イスラエル人がエジプトから解放されたことを記念する、50年目ごとの祝祭の年」のことです。レビ記25章に記されています。
カトリック教会では、この祝祭年は、1470年以後、25年ごとに定期的に守られるようになりました。
一般に、自己主張、私見を披露することはいいことです。でも、それがどこまで信用に足るものであるか、場合によっては、慎重に対応する術を講じる必要もあるでしょう。きょうのイエスはまさにそうした人と同じ立場にありました。つまり、当時の人々の心がイエスの言ったことを理解するために十分準備されていたとは思えません。したがって、彼らが戸惑い、反発し、イエスを否定しようとしたとしても咎めだてることは難しいでしょう。
しかし、現代のわたしたちは、じっくりと確かめる心を持ちつつも、十字架上で亡くなったイエスという存在のかくされた神秘に、少しでも迫ろうとする心は、大切にしなければいけないのではないでしょうか。
あの子どもたちのように、自己主張もまっすぐな、いつわりのない内容でありたい。イエスはそれにプラスして実行可能な力、恵みをも付与してくださるのです。
このこと、神のやさしさ、おおらかさを日々感じたいものですね。
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