四旬節第4主日(B年)の説教=ヨハネ3.14~21

2015年3月15日

message-eyecatch2東日本大震災から4年がたちました。あのように甚大な事故が発生しますと、その復興のために皆はありとあらゆる手段を駆使して、立ち上がろうとします。日本のカトリック教会も、震災の3か月後、「オールジャパン体制」での復旧・復興支援を決定し、三教会管区は具体的な支援活動に乗り出しました。

一方で、被災から年月が経ちますと関心が薄れたわけではないでしょうが、最近ではボランティア数が激減してきたそうです。まだ支援活動は必要とされています。仮設住宅住まいの方々からは「忘れないでほしい」という声が届いているようです。これからはそのような声に耳を傾けての「寄り添い続ける」活動が中心的になるであろうと、仙台教区の平賀徹夫司教は語っています(カトリック新聞2015年3月8日号)。

平賀司教は、今後の復興の基準が「寄り添う」ということにあると宣言をされたのかなと思っています。「寄り添う」という言葉から感じられることは、「温かさ、スキンシップ、親しみ、安心感、・・・」など、ホッとさせてくれる内容ばかりです。

今日の福音には、ファリザイ派のメンバーであったニコデモが登場し、彼との対話の中で、彼に、イエスさまはご自分のメッセージの中心となるものを啓示なさいます。それというのは、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」というメッセージです。ファリザイ派の人々は、律法の指導者であり、律法を文字通り実践することが救いへの近道であるという信念を持って生きている人々です。これが極端に進みますと、自分の力で、自分の努力次第で神への道を歩んでいるという錯覚、自惚れに陥りやすくなります。

また、福音の道がわたしたちの努力を必要としているのも事実です。ファリザイ派の人々は理想をかかげましたが、それは神の恵みを前提にしてこそ実現できることなのです。このことをニコデモに明かされたのです。言葉を換えていえば、イエスさまがその説教の中で要求される「愛を生きる」道は、「神から愛された」自覚と体験が出発になっているということでしょう。すなわち、先に神から愛されている事実があるからこそ、安心できるし、落ち着けるし、明るくもなります。

このことは、日常体験からもわかります。愛されている、認められている、相手にされていることがあって、人を愛し、大事にし、人として成長していきます。イエスさまのメッセージの中心はここにあります。子どもの成長はまさにそのものです。「愛されている子どもは」甘え方を知っています。甘え方を知っている人は、豊かな人間性を育みます。

主の十字架を仰ぎ見ることに、「寄り添うこと」の原点を見出すことができればこの上ないことです。暖かなふところこそ、人々の究極的なよりどころなんです。