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年間第32主日:「愚かさ」と「賢さ」の分かれ目はどこに?

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年間第32主日(A年)の説教⇒2026/11/8

【2026】説教の年間テーマ=神は罪びとに道を示される

年間第32主日(A年)の説教=マタイ25・1~13

2026年11月8日

 わたしたちが生活している地球。これだけでもかなりの広さを有しています。しかし、宇宙と比較すると、ちっぽけな広さかもしれませんが、それでもわたしたち限りある人間にしてみると雄大です。考えるまでもないでしょうが、この狭い(?)日本の中でさえも、隅から隅まで行ったことのある人、また、その情報のすべてを知っている人が、果たして何人いるのでしょうか。あとは、推して知るべしですね。

ところで、いつか、ある人に聞いた話ですが、「あいさつするときに、なぜ、欧米人は握手、日本人はお辞儀なのでしょう」ということについて。

アメリカ人と接する機会の多いビジネスマンに聞くと、さまざまなことがアメリカナイズされ、あいさつも握手ですませることが結構あるようです。とはいっても、日本人の挨拶の基本はやはりおじぎ、同じ挨拶なのに、なぜ国によってこんなに違うのでしょうか。文化が違うのだから当然だと言ってしまえばそれまでです。

でも、これにはちょっとした科学的な理由があるというのです。おじぎで挨拶するのは日本だけではなく、中国、タイなど東南アジアに多いです。というのは、これらの国に共通することといえば、いずこも、夏が高温多湿という気候です。このような国では、相手と抱き合ったり手を握り合ったりするのは、ベトべトして気持ちが悪いようです。このため体が触れ合わなくてもすむ挨拶が主流になったと考えられているということです。夏は世界どこにいても暑いですが、空気がカラッとしている欧米では握手が主流になったということです。

みなさんはご存じだと思いますが、握手の交わし方にも作法があるようです。握手を求めて手を差し出すのは、目上の人からが基本です。自分の方が若いと思ったら相手が手を出すまで待っているのが無難です。また、相手が女性のときは男性から握手を求めないのが普通だそうです。

「所変われば品変わる」とはいいますが、土地や地域が変われば、風俗・習慣・言葉・文化など“当たり前”が大きく異なるものですよね。時代が変われば、また、それにつれて、身近なものごとも変化し、発展していきます。

年間第32主日:その日、その時を知らないのだから、目を覚ましていなさい
年間第32主日(A年)の福音=マタイ25・1~13 「天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。

イエスの時代の話の内容も、今に生きるわたしたちからすると、奇異に思われる出来事が登場することがあります。きょうの福音に出てくる話も、今の時代感覚からすると「え、どうして」と思わるのではないでしょうか。

だって、結婚式が夜に、それも夜の遅くになって執り行われるなんて、今では想像もつきませんよね。しかし、当時ベトレヘム地方には、執り行う習わしがあったそうです。十人の乙女たちとは花嫁の付き添いをする人々で、花嫁の家で花婿の到着を待ち、花婿が着くと火をともし、花嫁に付き添って花婿の父の家にいき、宴席に加わったそうです。

今日の福音書の話では、たまたま花婿の到着が遅れてしまったので、待ち疲れて全員眠り込んでしまいました。彼女たちの役割は、花婿到着時に火をともし、それを消さないで喜びの祭式に備えることでした。そのことは式が始まる前からみなにはわかっていたことです。油は、今も昔も使えばなくなる消耗品です。忠実に自らの任務を果たそうする人にとって、先を見通して配慮し、手を打っておくことが求められます。

そこで五人の乙女たちは、別に油を準備し花婿の到着を待ちました。油の点検を怠ることはありませんでした。他の五人の乙女たちはといえば、花婿の到着の遅れに疲れ果て、油の点検どころではありませんでした。眠気の方が勝っていたのです。別の表現をするならば、自分たちの役割を果たせなくなるという事実を、直視していなかったのでしょう。仕事に対して考えが甘いといえばそうです。油がなくてもどうにかなるだろうという認識でいたのでしょう。

わたしたちは、日頃から、どうしても目先のことが気になってしまって、先を、未来を見通すことに集中するのはやさしくありません。やがてやってくる未来に、すばらしいことがあるとわかっていても、現実の魅力の方にひかれてしまいます。どうしても、今の楽しさ、安らぎの方に引きずられてしまうのです。その上、今の方が確かです、輝いています。そのように見えてくるのです。どちらかといえば、そうではないでしょうか。その意味では、わたしたちは現実主義者です。

しかし、信仰の世界は、今の現実よりも、未来の現実に重きを置きます。だから「今」はどうあってもいいのです、ということではありません。あくまでも「今」は過程であり、決定的な時は未来にあるからです。このことを示す話が、きょうのたとえ話の中にあります。それが何かといえば、当時の婚宴の席には、誰でも出席ができるようになっていました。つまり、扉などはなく、オープンスペースになっていたのです。そうした現状を熟知していながらも、イエスは敢えて、例え話の中に「戸が閉められた」という表現を用いて、重要な意味をもたせました。

それは、決定的な時、最終的な運命が決まる時です、という告知なのです。

「愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。」

「愚かさ」と「賢さ」の境はどこに、そして何が・・?

 

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