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年間第29主日:「おん父」の寛大さ、やさしさ、ゆるしを覚えつつ

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年間第29主日(A年)の説教⇒2026/10/18

【2026】説教の年間テーマ=神は罪びとに道を示される

年間第29主日(A年)の聖書=マタイ22・15~21

2026年10月18日

わたしたちが、なにげなく日常使っている言葉、表現でも、その意味を知って使っているのかどうか、あえてその意味を問われると、明確に分かっていないものがあるような気がします。

例えば、「気の置けない」という表現はどうでしょう。意外と「気を許せない」の意味にとらえ、本来の意味と逆の意味に解釈している人がいると聞きます。つまり「気の置けない」は、「遠慮をする必要がない」といった「気を使うことなく、気楽に付き合える」というニュアンスで使用される言葉です。(WURKより)
また、「情けは人の為ならず」という表現を、「情けをかけることは、その人のためにならない」と思っている人が、かなりいると聞いたことがあります。ご存知の方にはなんでそうなるの、と言いたくなるでしょうが・・。その意味は、「人に情けをかけると、回り回って自分の身に返ってくる。だから、人には親切にせよ」という教え、ということになります。(故事・ことわざ辞典、新星出版社)

つまりは、情けは人のためではなく、自分のためであるという意味ですね。 

そのほかに、混同して使っているかもしれないことばに、「批判」と「非難」があるのではないでしょうか。

「『批判』は物事の良し悪しを、論理的によく考えた上で判定することを表す場合に使います。 よく考えて判断することで、プラスな意味合いとして使うこともできますが、欠点やミスを指摘すると、否定的な意見を述べる場合に使うことが多いです。 ただ『批判』は過ちを指摘するだけではなくて、その事についての改善を求めるという意味が含まれます。

『非難』の意味は「相手の欠点や間違いなどを責めて問いただすこと」です。 相手の失敗だったり、弱みなど悪い点を問い詰めて責めることを表します。 『批難』と表すこともできます。 例えば、相手の失敗や失言などを責め立てることを『非難する』と表現できます。『非難』は相手に不快な気持ちにさせる、傷つけてしまう行為なので度を越さないように気をつけましょう。 『非難轟々(ひなんごうごう)』という表現があります。これは『多くの人が過ちを激しく非難すること』を意味します。」(WURKより)

過日、「デジタル化」が叫ばれ、さらなる高度な技術が進み、ますます情報「急速化」がその先陣を争っています。その一方で、技術の発展が思いのほか速く、その動きにブレーキをかけなくてはいけない、と、その「鈍速化」を提唱し始めた技術家が現れ始めました。

一連の報道を目にしたり、耳にしたりする中で、やはり帰り、落ち着くところは「アナログ」の社会なのかな、と・・。物事の綺麗さ、便利さ、速さから言えば、確かに、見劣りはするものの、なんといっても安心、安全です。とはいっても、・・・今後、どうなっていくのでしょうか。もっとややこしくなっていきそうです。

いずれの社会においても、正、負の部分はあります。それぞれの「正」の部分をいかに拡大し、活用していくか、良識ある人間の知恵がものをいいます。わたしたちは「正」をさらに「良正」にしていくことができます。そうした社会になっていけば、発展、進歩していく社会が躍動感にあふれ、「行き過ぎて」ブレーキを踏むことも必要なくなるでしょう。でも、そういかないのが人間の社会です。自らの能力を「負」の方へ使おうとする「欲」が頭をもたげてくるのです。

年間第29主日:「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」
年間第29主日(A年)の福音=マタイ22・15~21 〔そのとき、〕 ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた

時代を大きく遡って、イエスの時代においても同じようなことが言えます。ファリサイ派の人々、ヘロデ派の人々、律法学者等、それぞれお互いが結託し、イエスの言葉じりをとらえようとして罠を仕掛けていきます。いわゆる、彼らの、いただいた能力の「負」の部分がむき出しです。きょうの福音書でもそうです。 

「ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。『先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。』」(マタイ22・15~17)

イエスの答えは次の通りです。

「イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。『偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい。』彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは、『これは、だれの肖像と銘か』と言われた。彼らは、『皇帝のものです』と言った。すると、イエスは言われた。『では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。』」(マタイ22・18~21)と。

追い詰められたイエスの答えは、実に見事なものです。でも、彼らの質問に対する答えとしては、前半部分だけで十分なのに、「神のものは神に」と付け加えています。なぜなのでしょう。イエスの宣教活動の基本的な姿勢は、「人」を大事にすることです。相手の人が、たとえどのような人であっても、おん父の救いの対象から漏れてはいけないのです。意地悪な人、策略を仕掛けてくる人、偽善の塊のような人であったとしても、救いの手を差しのべていきます。

今、目の前にいるファリサイ派の弟子たちとサドカイ派の人たちにも、おん父のやさしさ、大きさ、広さを、イエスはお示しになります。「神を思いだせ、どのような神か、神はあなたたちに何をしてくれたか」という事実に目覚めさせようとするのです。イエスは、あくまでも、その考え方、動きは「アナログ」です。なんといっても、温かい情が流れています。

今もなお、この時にも、イエスは、この呼びかけを、わたしたちに続けておられます。

 

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