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年間第26主日:「後悔する」感情だけでなく「考え直す」行動まで進めたい

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年間第26主日(A年)の説教⇒2026/09/27

【2026】説教の年間テーマ=神は罪びとに道を示される

年間第26主日(A年)の説教=マタイ21・28~32

2026年9月27日

外国から日本に来られた方がよく口にされることに、「日本語は非常に難しい」ということがあります。発音もそうでしょうが、漢字が難しいとか、言葉の意味の曖昧さ、うらを返せば意味の味わい深さ、広さ、豊かさなのでしょうが、とにかく、大変な言葉だそうです。

わたしたち日本人でも使いきれていないことってあるのではないでしょうか。いくつになっても勉強ですね。どんなケースにぶち当たっても対応できるように、後悔しないためにも、・・。

そこで、その「後悔」という言葉を調べてみました。

「後悔は、人間だけが持つ高度な感情のひとつです。やっかいに見えて、実は『次はもっとうまくやろう』と学習するための、進化が用意した仕組みでもあります。後悔の正体を知ることは、後悔に振り回されずに付き合う第一歩になります。

『後悔』とは、過去の自分の選択に対して『別の選択をしていれば、もっと良い結果になったはずだ』と感じる、比較から生まれる感情です。実際の結果と『ありえた結果(反実仮想)』を比べることで生まれます。比べる対象がはっきりしているほど、後悔は強くなります。

『行動した後悔』と『しなかった後悔』、長く残るのはどっち?

心理学の研究では、短期的には『やってしまったこと(行動した後悔)』が強く、長期的には『やらなかったこと(行動しなかった後悔)』のほうが長く残るとされています。失敗した行動は『次は気をつけよう』と心理的に処理しやすい一方、『挑戦しなかった』『言わなかった』という後悔は、解消されないまま心に残り続けるためです。年代が上がるほど『やらなかった後悔』が増えるのは、このためだと考えられます。」(ko-kai.jp「後悔の心理学」)

今日の福音は、二人の息子のたとえ話が紹介されていますが、これはその実、神殿から商人達を追い出したイエスに詰め寄り「何の権威でこのようなことをしてるのか」と問い詰めた祭司長たちに対するイエスの批判になっています。

 父が「今日、ぶどう園で働きなさい」と頼んだとき、弟は「お父さん、承知しました」と承諾したのに実行しなかったけれども、最初は拒絶していた兄は「後で考え直して」ぶどう園に出かけていきます。

「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。」(マタイ21・28~30)

ここに、悪いと思いなおして態度を改めていく、悔い改めの神秘を見ることができます。兄の取った行動の中に「後で考え直して」ということがあります。父親に頼まれたその時には、もっと自由にしたい、束縛されたくないという気持ちがあって、反射的に断りの返事をしたのでしょう。その後、自分の思うままに行動していたのでしょうが、断ったという事実に対するうしろめたさもあったのでしょうか、彼の心は落ち着かなかったのです。心のどこかで不安があり、平安をなくしていたのではないでしょうか。

今のわたしたちにとっても同じですよね。自分の都合だけ(わがまま)を考えて断りを入れた時って、不安定な気持ちになりませんか。やろうと思えばできたのに「ノ~」と言ってしまったばっかりに落ち着きをなくして、その後、自分がやることなすこと、すべてが中途半端に終わってしまう、という体験はないでしょうか。

年間第26主日:兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して実行した
年間第26主日(A年)の福音=マタイ21・28~32 ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。

今日の福音の兄も、全く同じような心理状態にあったといえなくもないです。人間としてどこかおかしい、あるべき道に沿っていないという感覚があらわれてくる時ってないでしょうか。この動きは、まさしく「良心」の働きと言えます。

人は堅苦しい、窮屈な人というかもしれないけど、生きる姿勢が充実していない時に出てくるしらけの気分、虚無的な気分なども、広く言えば良心の働きと言えるでしょう。人間としての生きるべき道を見失っている時に出てくるものだからです。

だから、どのような人にも良心の働きはあるのです。それがない人はいません。わたしたちの心の奥に焼き付けられた能力です。したがって、人間としての生きる道はこれだ、と言って感じ取り選択する能力は、誰にでもあるのです。しかし、良心は訓練していかないと、その働きが減退していきます。

わたしたちの欲求がいろいろあって、それに幻惑されるときが訓練の場です。目先の幸福、楽しみに、すっかりひかれてしまうのか、どうか。権勢欲、名誉欲、虚栄心に動かされて生きるのか、どうか。闘いの場、訓練の場です。

イエスはたとえを語り終えると、それを祭司長たちに適用していきます。洗礼者ヨハネが到来したとき、彼らはヨハネを信じなかっただけではなく、徴税人や娼婦が信じたのを見ても、「後で考え直す」ことがなかったと指摘します。彼らは、弟のように「お父さん、承知しました」と答えたけれども実行していない人たちであり、さらに、「後で考え直す」機会をも利用しなかった人たちだ、とイエスは批判します。『挑戦しなかった』『言わなかった』という後悔すら、彼らの中にはわきあがってこなかったということです。完全に良心の働きが停止しています。否、停止させられているのです。彼らの権勢欲、名誉欲、虚栄心の魅力に動かされたままに、・・・。

別の言い方をすると、ヨハネを信じたのが、徴税人や娼婦だったから、その現実を見つめず、自分たちは、神の指示を果たしていると過信していたゆえに、ヨハネを信じることができなかったのです。彼らは、自らの思いが神の思いと一つだと考えているのです。だからこそ、イエスをも信じる、受け入れることができなかったのです。

わたしたちも、「後悔する」感情だけではなく「考え直す」行動まで、自らを進めたいですね。

 

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