
【2026】説教の年間テーマ=神は罪びとに道を示される
年間第27主日(A年)の説教=マタイ21・33~43
2026年10月4日
多方面にわたりご活躍中のフリーアナウンサー有働由美子さん(57歳)、
そうですよね。どなたでも、何かを誰かにして差し上げられたとき、その方が喜んでくれる時って、自分までもが嬉しくなって、新たな力がわいてきますよね。このような体験が多くなれなるほど、活力を感じ、健康と若々しさと、心身ともに健康的で豊かな日々をおくることができる秘訣になっていくのではないでしょうか。齢を重ねても老け込むことはないのです。多くの方がこのような日々を願っており、そのように生きようとしています。
わたしたち一人ひとりが生きている意味も、ここにあるように思いますが、・・。
一方で、同じわたしたちの間に、心身ともに病んでいる方が多いのも事実です。生きている環境を自ら切り開いていく「きっかけ」がなく、前向きに生きようとしてもその方に向かう力がわいてこない人びと、そうしようとしても、その度に、何かによって、誰かによって潰されてしまうことの繰り返しを体験すると、自暴自棄的になりやすいのが、わたししたち人間です。同時に、人間の狂暴的な、根源的な醜さを暴露してしまいます。
新聞紙上で毎日のように報道されているのは、明るい、元気が出るニュースよりも、悲しい、さびしいニュースの方が、どちらかといえば多いような気がします。特に「三面記事」の欄では。わたしが気になった報道が以下のものです。
「群馬女性殺害事件」です。
「事実は小説より奇なり」ということわざがあります。それは、「この世で起る出来事は、虚構である小説より複雑で不思議なことがある」という意味です。(岩波ことわざ辞典)
事件は大小に関係なく、やはり、なんとも言えない不可思議なことが、人間の心の中で起こり、それが形となって表に出てきたとしか言えないですね。その「不可思議なこと」について、その本人ですら分かっていないことなのではないでしょうか。ほどそれほどに「異常」現象なのです。一つ言えるかなと思うのは、それぞれの人の中に潜む「欲」が、時々邪魔をするではないかということです。

今日の福音では、
「ある家の主人がぶどう園を作り、・・・これを農夫たちに貸して旅に出た。さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。・・・そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。」(マタイ21・33b~39)
このような話は、現実にはあり得ないような仕打ちでしょうが、イエスがこのような誇張した話をなさったのは、人の中に巣食う強欲さへの警告かもしれません。利益を自己中心的に追及する強欲さは、跡取りを殺して「相続財産を我々のものにしよう」という目論みに表されています。
今日の第一朗読と福音は人間や人間社会の根源的な醜さを暴露しています。でも、第二朗読はこの現実を踏まえたうえで、キリスト者が取るべき態度を教えています。
「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(フィリピ4・6~8)
人間が自分の力で醜さを駆除することには限界があります。だから「神の平和」にすがるより道がないのです。わたしたちは、根本的には、人との交わりの中で「わたしらしく」なり、「平和」を愛する存在です。
その時の自分のありのままの姿を素直に打ち明け、そして、神にすがりましょう。


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