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年間第27主日:その時の自分のありのままを打ち明け、神にすがりましょう

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年間第27主日(A年)の説教⇒2026/10/4

【2026】説教の年間テーマ=神は罪びとに道を示される

年間第27主日(A年)の説教=マタイ21・33~43

2026年10月4日

多方面にわたりご活躍中のフリーアナウンサー有働由美子さん(57歳)、

彼女が出演するテレビ番組「健康案内人」の中で、“絵手紙”が紹介されていました。彼女自身も番組の中で描きつつ「絵手紙教室」のメンバーの方にインタビューします。その方に「絵手紙を描かれ続けられる魅力って何ですか」と。
その方曰く。「絵手紙を差し上げた相手の方が喜んでくれていることです。その方の人生を変えるほどの力はなくても、何も、そんな大それたことは思ってはいませんが、とにかく、相手の方が喜んでくれることが一番です」と。

そうですよね。どなたでも、何かを誰かにして差し上げられたとき、その方が喜んでくれる時って、自分までもが嬉しくなって、新たな力がわいてきますよね。このような体験が多くなれなるほど、活力を感じ、健康と若々しさと、心身ともに健康的で豊かな日々をおくることができる秘訣になっていくのではないでしょうか。齢を重ねても老け込むことはないのです。多くの方がこのような日々を願っており、そのように生きようとしています。

わたしたち一人ひとりが生きている意味も、ここにあるように思いますが、・・。

一方で、同じわたしたちの間に、心身ともに病んでいる方が多いのも事実です。生きている環境を自ら切り開いていく「きっかけ」がなく、前向きに生きようとしてもその方に向かう力がわいてこない人びと、そうしようとしても、その度に、何かによって、誰かによって潰されてしまうことの繰り返しを体験すると、自暴自棄的になりやすいのが、わたししたち人間です。同時に、人間の狂暴的な、根源的な醜さを暴露してしまいます。

新聞紙上で毎日のように報道されているのは、明るい、元気が出るニュースよりも、悲しい、さびしいニュースの方が、どちらかといえば多いような気がします。特に「三面記事」の欄では。わたしが気になった報道が以下のものです。

「群馬女性殺害事件」です。

「群馬県太田市の住宅で住人の会社員手塚由佳さん(52)が殺害され、長男(26)が軽傷を負った事件で、県警は27日、手塚さんの長女(28)の元夫で、公開手配していた栃木県佐野市伊勢山町、職業不詳三原 理稀(りき) 容疑者(30)を、長男に対する殺人未遂容疑で逮捕した。群馬県高崎市のパチンコ店で発見された。

発表によると、三原容疑者は25日午後0時15分頃、太田市市場町の住宅で、帰宅した長男の後頭部や背中を包丁で切りつけて殺害しようとした疑い。「間違いない」と容疑を認めている。県警は手塚さんの殺害にも関与したとみて調べる。

三原容疑者は現場から徒歩で逃走した。県警は27日昼頃、約35キロ離れた高崎市のJR高崎駅周辺の防犯カメラに映る似た人物を確認。捜査員が同市江木町のパチンコ店で三原容疑者を見つけた。事件当時とは違う服装で、公共交通機関で移動したとみられる。

長女と三原容疑者は離婚後も一時同居。栃木、群馬両県警には、三原容疑者のDV(配偶者や恋人からの暴力)に関する相談などが寄せられていた。長女は手塚さんの世話で太田市の実家に戻る予定だったが、三原容疑者から「家族と俺のどっちを取るのか。母親と長男を殺して自分も死ぬ」と言われたとし、今月19日に栃木県警に相談していた。

一方、長女は事件化を望まず、三原容疑者との交際継続を希望したため、栃木県警は同日、三原容疑者に危害を加えないよう対面で指導した。一連の対応について「長女の意向に沿って対応したが、重大な結果が発生したことを重く受け止めている」としている。(讀賣新聞オンライン)

「事実は小説より奇なり」ということわざがあります。それは、「この世で起る出来事は、虚構である小説より複雑で不思議なことがある」という意味です。(岩波ことわざ辞典)

事件は大小に関係なく、やはり、なんとも言えない不可思議なことが、人間の心の中で起こり、それが形となって表に出てきたとしか言えないですね。その「不可思議なこと」について、その本人ですら分かっていないことなのではないでしょうか。ほどそれほどに「異常」現象なのです。一つ言えるかなと思うのは、それぞれの人の中に潜む「欲」が、時々邪魔をするではないかということです。

年間第27主日:主がなさる不思議なわざ⇒捨てられた石が隅の親石となった
年間第27主日(A年)の福音=マタイ21・33~43 ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。

今日の福音では、

「ある家の主人がぶどう園を作り、・・・これを農夫たちに貸して旅に出た。さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受け取るために、僕たちを農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で打ち殺した。・・・そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。」(マタイ21・33b~39)

このような話は、現実にはあり得ないような仕打ちでしょうが、イエスがこのような誇張した話をなさったのは、人の中に巣食う強欲さへの警告かもしれません。利益を自己中心的に追及する強欲さは、跡取りを殺して「相続財産を我々のものにしよう」という目論みに表されています。

今日の第一朗読と福音は人間や人間社会の根源的な醜さを暴露しています。でも、第二朗読はこの現実を踏まえたうえで、キリスト者が取るべき態度を教えています。

「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(フィリピ4・6~8)

人間が自分の力で醜さを駆除することには限界があります。だから「神の平和」にすがるより道がないのです。わたしたちは、根本的には、人との交わりの中で「わたしらしく」なり、「平和」を愛する存在です。

その時の自分のありのままの姿を素直に打ち明け、そして、神にすがりましょう。

 

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