
【2026】説教の年間テーマ=神は罪びとに道を示される
年間第30主日(A年)の説教=マタイ22・34~40
2026年10月25日
世界は多様性に満ちています。人種、出身地、国籍、宗教、言語など、さまざまな要素が絡み合い、私たちの社会を形作っています。人間観、それに伴う物事の価値観、慣習等、だからこそ、他の人に倣い、学び、お互いの文化を受け止め合う心の広さ、豊かさが大事、必要となってきます。お互いが平和裏に生活し、豊かな人生を築き、発展させていくいてために、・・。同時に、わたしたち一人ひとりが、豊かな品格を備え、成長し、充実した日々を送っていくために。
そして、
これだけの違った人が、この地球上に居を定め、共存しています。それぞれに共同体を形成し、助け合い、協力し合って共存共栄を目指して前に進んでいこうとしています。そのために大きな助けになるものが「決まり事」いわゆる規範・ルールです。しかし、これは、あくまでも外的な、しかも力関係の緊張のもとに保たれる、不安定な平穏であることは確かでしょう。
ところで、それら規範、ルール等、「法律」と呼ばれるものと、「掟」とはどう違うのでしょう、と疑問がわいてきます。次のような説明がります。
そこで、「掟と法」の違いとは、
身近な「掟」の例をいえば、
以上のような一つの視点に立って思うときに、「愛は掟になるものなのでしょうか」というお尋ねです。

今日の福音でイエスは、律法の専門家からの質問に対して答えます。
「イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』」と。(マタイ22・37~40a)
「愛する」ことに、優劣があるのかどうか断言することはできませんが、また、強制するものでもないでしょう。愛はもっとも自発的なもの、自由なものではないでしょうか。先述の表現を借りるとすれば、「自発的な協力や圧力によって守られる」ものでしょう。だれからも強制されてはならないし、義務づけられてもならないものでしょう。
それを、イエスは「愛がおきて、しかも、もっとも大切なおきて」と言明なさいます。ユダヤ人ならば誰もが知っているこの言葉。この言葉は申命記6章5節にあります。
「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。」(申命記6章4~7節)
ユダヤ人たちは、朝夕二回、この箇所と民数記15章37節から41節を、信仰告白として唱えていたということです。
「主はモーセに言われた。イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。代々にわたって、衣服の四隅に房を縫い付け、その房に青いひもを付けさせなさい。それはあなたたちの房となり、あなたたちがそれを見るとき、主のすべての命令を思い起こして守り、あなたたちが自分の心と目の欲に従って、みだらな行いをしないためである。あなたたちは、わたしのすべての命令を思い起こして守り、あなたたちの神に属する聖なる者となりなさい。わたしは、あなたたちの神となるために、あなたたちをエジプトの国から導き出したあなたたちの神、主である。わたしはあなたたちの神、主である。」(民数記15章37~41節)
この箇所が、子孫に、「神を愛さなければいけない」理由として説明されているものです。日本人的にピタッと来る表現としては、「神をお大切に」ということです。人間的な言い方をすれば、神から受けた恩義にお返しをするということでしょうか。「義理と人情」の話ではないですが、神はわたしたちの大恩人ですから、その恩に報いるためのお返しが優先されるのです。
こうした考えが、神を愛することが「掟」とされる根拠になっています。
ユダヤ人は、自らが受けた恩義を忘れることはないでしょうが、子孫の皆はどうかとなれば、実感としてはうすくなります。それを「信仰告白」として後世に残してきたのは、彼らの知恵、これもまた神の支えがあっての恵みでしょう。
すべてが恵みの中で、・・・。


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