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年間第30主日:「掟」とは何でしょう?すべてが、神の恵みの中で・・・

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年間第30主日(A年)の説教⇒2026/10/25

【2026】説教の年間テーマ=神は罪びとに道を示される

年間第30主日(A年)の説教=マタイ22・34~40

2026年10月25日

世界は多様性に満ちています。人種、出身地、国籍、宗教、言語など、さまざまな要素が絡み合い、私たちの社会を形作っています。人間観、それに伴う物事の価値観、慣習等、だからこそ、他の人に倣い、学び、お互いの文化を受け止め合う心の広さ、豊かさが大事、必要となってきます。お互いが平和裏に生活し、豊かな人生を築き、発展させていくいてために、・・。同時に、わたしたち一人ひとりが、豊かな品格を備え、成長し、充実した日々を送っていくために。

そして、

「世界の人種構成は、地域によって大きく異なります。アジア系が世界人口の約60%を占め、中国やインドが中心です。アフリカ系は約15%、ヨーロッパ系は約10%、ヒスパニック/ラテン系は約8%、その他のグループが約7%を占めています。人種の多様性は、文化や歴史の違いを反映しています。」(Noteより)

「宗教も多様性の重要な要素です。キリスト教徒が世界人口の約31%、イスラム教徒が約25%、ヒンドゥー教徒が約15%、仏教徒が約7%、その他や無宗教が約22%を占めています。宗教は、人々の生活や価値観に深く根ざしています。」(同上より)

これだけの違った人が、この地球上に居を定め、共存しています。それぞれに共同体を形成し、助け合い、協力し合って共存共栄を目指して前に進んでいこうとしています。そのために大きな助けになるものが「決まり事」いわゆる規範・ルールです。しかし、これは、あくまでも外的な、しかも力関係の緊張のもとに保たれる、不安定な平穏であることは確かでしょう。

ところで、それら規範、ルール等、「法律」と呼ばれるものと、「掟」とはどう違うのでしょう、と疑問がわいてきます。次のような説明がります。

「掟とは 共同体の中で守られる規範のことを指します。暗黙のルールと書かれるこもあり、誰かが決めた法的な決まりではないことが多いです。日常生活の中で、友だち同士の約束、学校の班活動の取り決め、地域社会の習わしなど、さまざまな場面で現れます。掟は時に柔軟に変化しますが、守ることで人と人の信頼が保たれやすくなります。」(fromation 高岡智則)

そこで、「掟と法」の違いとは、

「掟は 強制力が弱く、自発的な協力や圧力によって守られることが多いです。法は国や地域が定め、違反すると罰則がある正式な規定です。一方で規則は組織内のルールであり、組織が守らせる権限を持っています。つまり掟は社会の基盤になる暗黙の規範で、法は国の権力が背後にある公式な規定、規則は組織内の細かいルールです。

身近な「掟」の例をいえば、

学校のクラスでの「遅刻・挨拶・授業中の静粛」を守る掟、地域のごみ出しルール、友人との遊びの順番を守る掟などがあります。こういった掟は互いへの思いやりを形にしたもので、社会生活の秩序を保つ役割を果たします。(同上参照)

以上のような一つの視点に立って思うときに、「愛は掟になるものなのでしょうか」というお尋ねです。

年間第30主日:最も重要な掟は神を愛し、隣人を自分のように愛すること
年間第30主日(A年)の福音=マタイ22・34~40 〔そのとき、〕ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。

今日の福音でイエスは、律法の専門家からの質問に対して答えます。

「イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』」と。(マタイ22・37~40a)

「愛する」ことに、優劣があるのかどうか断言することはできませんが、また、強制するものでもないでしょう。愛はもっとも自発的なもの、自由なものではないでしょうか。先述の表現を借りるとすれば、「自発的な協力や圧力によって守られる」ものでしょう。だれからも強制されてはならないし、義務づけられてもならないものでしょう。

それを、イエスは「愛がおきて、しかも、もっとも大切なおきて」と言明なさいます。ユダヤ人ならば誰もが知っているこの言葉。この言葉は申命記6章5節にあります。

「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。」(申命記6章4~7節)

ユダヤ人たちは、朝夕二回、この箇所と民数記15章37節から41節を、信仰告白として唱えていたということです。

「主はモーセに言われた。イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。代々にわたって、衣服の四隅に房を縫い付け、その房に青いひもを付けさせなさい。それはあなたたちの房となり、あなたたちがそれを見るとき、主のすべての命令を思い起こして守り、あなたたちが自分の心と目の欲に従って、みだらな行いをしないためである。あなたたちは、わたしのすべての命令を思い起こして守り、あなたたちの神に属する聖なる者となりなさい。わたしは、あなたたちの神となるために、あなたたちをエジプトの国から導き出したあなたたちの神、主である。わたしはあなたたちの神、主である。」(民数記15章37~41節)

この箇所が、子孫に、「神を愛さなければいけない」理由として説明されているものです。日本人的にピタッと来る表現としては、「神をお大切に」ということです。人間的な言い方をすれば、神から受けた恩義にお返しをするということでしょうか。「義理と人情」の話ではないですが、神はわたしたちの大恩人ですから、その恩に報いるためのお返しが優先されるのです。

こうした考えが、神を愛することが「掟」とされる根拠になっています。

ユダヤ人は、自らが受けた恩義を忘れることはないでしょうが、子孫の皆はどうかとなれば、実感としてはうすくなります。それを「信仰告白」として後世に残してきたのは、彼らの知恵、これもまた神の支えがあっての恵みでしょう。

すべてが恵みの中で、・・・。

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