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年間第28主日:人生苦、信仰の暗闇の真っただ中にいる「わたし」は、何をしている

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年間第28主日(B年)の説教

2024年(B年)説教の年間テーマ=あなたの言葉は「わたし」の道の光

年間第28主日(B年)の説教=マルコ10・17~30

2024年10月13日

人間はどの国、地域社会においても、悩み、苦しみを抱えていないところはないのではないでしょうか。その中身も、その地域だからこその典型的なものであったり、その地域全般にわたる共通のものであったりとさまざまです。

今、我が国において都会ではなく、地方に行くとその多くの場所が共通の問題を抱えているのではないかと思います。それは、「地域交通事情」の問題です。全体の人口が減ったにもかかわらず、少なくなったとはいえ、若者たちは確実に住んでいます。そこで問題になるのが、生徒・児童の通学する手段です。その多くはバス通学、JR通学です。通学生は路線バスやJRの主要な利用者なのです。

そこで、鹿児島県志布志市は2024年度、路線バスやJR日南線を使う市内在住の高校生の通学費を補助する制度を拡充したということです。鹿児島県教育委員会によると、生徒の通学費を補助しているのは県内19市町村。しかしながら、同じ学校に通いながら居住地により差がある状況も生まれているようです。

昨年から今年にかけ県立高校の通学バスや通学ダイヤ減便が相次いでいます。運転手不足や残業規則強化による「24年問題」は高校生の通学手段を直撃しているのです。県教委の調査で、影響を受けた県立高校性は昨年10月時点で61校中16校945人。今年4月には28校に広がっています。しかし、その数は692人に減っています。影響を受けた生徒への支援に当初前向きでなかった県は本年度、定期代が増えた県立高校生に「緊急的な措置」として補助を始めています。夏には県立高校の全生徒を対象に通学状況調査を実施し、その結果を踏まえて支援について検討することにしています。県教委は「高校生は住民の一部。地域全体で検討する課題と捉えている」と説明しています。(南日本新聞2024年10月5日朝刊)

わたしたち一人ひとりが抱えている問題、苦悩はそれぞれ違うでしょう。したがって、行政がそれを手助けしよとすれば、どうしても「補助金」で援助という形になるのでしょうね。援助をいただく50代の父親は「3カ月定期で4万円ほどかかり、補助で家計の負担感はずいぶん違う。」と話しています。苦しい状況が少しでも軽くなることを願い、人はどんな些細なことにも挑戦します。

年間第28主日:永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか?
年間第28主日(B年)の聖書=マルコ10・17~30 〔そのとき、〕イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。

きょうの福音では、「イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。『善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。』」という問いから始まります。この問いが真摯な心からの問いであることは、彼のその態度に現れています。しかも真剣に道を求めている人ですから、イエスの質問に対して答えています。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」すると彼は、『先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました』と言った。」

イエスはさらに付け加えます。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」と諭します。でも、イエスはこの指示を実践することの難しさを知っているので、指示を与える前に「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。」のです。「慈しんで」を直訳すれば「愛して」となるそうです。イエスの愛は実践への力となるからです。ところが彼は、「この言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。」

イエスの愛を感じたからこそ、彼は「悲しみながら立ち去った」のでしょう。そして、それが永遠のいのちへの確かな道であるということもさとっていたのです。普通だと、ここで葛藤し思い悩むのでしょうが、彼はその葛藤から逃避してしまいました。そのことは、わざわざイエスのところに来てあえて問うた問題への答えにはならず、解決にもなっていません。彼はその後、どのような生き方をしたのでしょうか。いつの日かイエスのこの言葉に励まされ、改心し、悔い改める機会を得たのでしょうか、それとも、葛藤しなければいけない時に、いつも回避していく道を選択したのでしょうか。

わたしたちも自分の生き方と、イエスからのお招きに対する自分の反応、対応の振り返りを繰り返すことは、神への信仰と委託を深める大切な機会になるかもしれません。そのためには、日常の中で、イエスの招き、呼びかけをどう感じているのでしょうか。あくまでも自分にとって良かれと思われること、時だけが呼びかけと思っていないでしょうか。苦しんでいる時、辛い時だって、いや、そういう時だからこそ、イエスからの声を聞き漏らすことのないようにしなければいけないのでしょう。

イエスはこの金持ちの人に「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。」と言って、たくさんのことを要求してはいません。ところが、その一つが一番、彼には受け入れがたいことだったのです。執着心が強かったのでしょうね。彼を葛藤、悩みから解放するのは持ち物を放棄することしかなかったということでしょう。

イエスの意に沿うために、邪魔になっているもの、それが一番、その人にとって信仰を深める壁になっているということでしょうか。「わたし」にとっての邪魔ものは何?

ありのままの自分をしっかりと見つめ、イエスの前で認め、そのままの自分を差し出すことができれば、・・・いいですね。

生きていく苦悩、信仰の闇、霧をすっきりさせたい、自分の内・外の景色をしっかりと見、楽しく前に進むために、苦しみのトンネルを抜けたいために・・・です。

 

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