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年間第21主日:「つぶやき」が嘆き節ではなく、さわやかな祈りになるように!

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年間第21主日(B年)の説教

2024年(B年)説教の年間テーマ=あなたの言葉は「わたし」の道の光

年間第21主日(B年)の説教=ヨハネ6・60~69

2024年8月25日

わたしたちの周りには、「あの人、よくぶつぶつ独り言を呟いているよね」と言いたくなるほどに、「つぶやく」人がいらっしゃいます。

振り返ってみますと、わたしたちは、感情的になったときや、プレッシャーのかかる状況に置かれたときに独り言をつぶやくことが多いのではないですか。 例えば、怒りや不満を感じたときに「もう、なんでこうなるの! 」と独り言を言うことで、ストレスを解消させているのでしょうか。 自分の声を聞くことで安心感が得られるという効果が多少あるのかなと思いますが、・・。

いずれにしても、わたしたちの通常の「つぶやき」についてどのような説明があるかといえば、次のような解説を見つけました。(@DIMEアッとダイム

なぜ人は独り言をつぶやくのか?

  1. ストレス解消のため
  2. 思考を整理するため
  3. 心の病気の可能性も

独り言がうるさい人の心理とは?

  1. ストレスを抱えている
  2. 寂しさや孤独感がある
  3. かまってほしい
  4. 自分の考えや行動を確認している

上記のようにまとめられるということは、やはり、わたしたちがいつも誰かとの交わりの中で生きているという証明です。誰かとの交わりがあって、「わたし」の中で何かの変化が起こるのです。ある時は励ましを受けて元気が出ることがあります。また喜びや、やる気が起きるきっかけを受けることもあります。これら、心身にプラスになることがたくさんあるのですが、現実は、逆のマイナスの部分が、どうしても印象としては強く後に残り、尾を引いてしまうケースが多いのではないでしょうか。自分がそのプラスマイナスの判断の中心にあります。

イエスと民衆との間にも、今のわたしたちと同じような関わりがあったことが述べられているのが、きょうの福音書のような気がしています。

きょうの福音でイエスは、確たる信念をもって、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。 これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」(ヨハネ6章56∼58節)と述べられています。

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この言葉を聞いた弟子たちは「弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。『実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。』」と言って「『このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。』」のです。

ヨハネの6章は、人々がイエスから離れていく様を説明している箇所です。はじめは大群衆に囲まれていたのが、やがて群衆になり(ヨハネ6章の24節)、それがユダヤ人という表現に変わり(ヨハネ6章41節)、最後は弟子たちだけとなります(ヨハネ6章60節)。さらには、弟子たちのほとんどが去り、究極的に残ったのは12人だけになってしまいました(ヨハネ6章67節)。

離れていった弟子たちに共通している理由は、イエスの軌跡を見て興奮し、イエスを王にまつりあげようとしたことです。ローマ帝国の支配から解放してくれるメシアとしての期待をイエスにかけてしまったのです。それに対するイエスの反応は手厳しいものでした。「イエスは答えて言われた。『はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。』」と。(ヨハネ6章26∼27節

イエスがこのように指摘されたということは、群衆がイエスのいるところまで来たのは、感謝のためではなく、礼拝のためでもなく、ただパンを食べて満腹したからです。またご馳走にあずかりたいからここまでやって来たのです、と彼らの心を知っておられたからでしょう。それゆえ「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」 と教えられたのです。弟子たちの思いが優先されているからす。

群衆の中には真理を求めてイエスを追い求めた人もいたと思うのですが、ほとんどの人たちはパンと魚をお腹いっぱい食べることができたので、御馳走を求めてイエスを追ってきたのです。貧しい時代でしたから、人々は飢えていて、明日の食事さえ心配する状況でした。ですから彼らの気持ちもわからないわけではありません。しかし、その奇跡を行なわれたイエス・キリストご自身に、本当は目を向けなければならなかったのです。

今の「わたし」はどうでしょう。現代社会の中にあって、自分の周りのこと、人が気になって、神に、イエス・キリストに目を向ける「時」を探そうとしているでしょうか。自らの辛さ、苦しみ、やるせなさがどうしても気になり、周りに、ましてや神に、イエスに、目と心を向けることがおろそかになってはいないでしょうか。むしろ、そんな時こそ神にすべてを向ける、もってこいの「時」なのではないかと、・・。できることなら、普段の平穏な時にも、・・・。

「つぶやき」もそよ風のような神への賛美と感謝の祈りに変えられるでしょう。

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