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年間第18主日:なぜか頑固な「きょう」のイエス。本当の姿は?

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年間第18主日(B年)の説教

2024年(B年)説教の年間テーマ=あなたの言葉は「わたし」の道の光

年間第18主日(B年)の説教=ヨハネ6・24~35

2024年8月4日

「高齢者不便の声」の見出しが目に入りました。九州電力が熱中症予防のため高齢者向けに実施する電気料金プランについて、「不便である」という声が上がっているとのこと。電気料金プランとは、75歳以上の高齢者が暮らす世帯を対象に、9月の電気料金を割り引く「熱中症予防プラン」です。それには申告制を採用していて、8月20までにホームページ専用ページから申し込むことになっています。エアコンや扇風機を気兼ねなく使ってもらう触れ込みです。

「不便である」という声が上がっている大きな理由は、「ネット受付のみ」が認められるということです。あくまでも料金プランの対象は高齢者です。総務省の調査による2023年の年代別インターネット利用率は、13歳から69歳までは、90%を超えた利用率ですが、70歳以上になると急にその率が下がります。80歳以上になると36.4%にまで落ち込んでしまいます。

前回に実施した2022年のときは、電話申し込み「可」としていました。その時は約16万件の申し込みがありました。やはり、ニーズの高さをうかがわせます。今回は、申し込みがネットに限られる点が、年配者にとってはネックとなっています。インターネットの利用率は上述した通りで、年を重ねるにしたがってその率は減少していきます。したがって、今回の制度は75歳以上の方々にとっては、親切な計画、配慮とは言い難いのではないかと。九電は今回の申し込み制度を決定した背景に、「前回はコールセンターにつながるまでに待たせてしまい、迷惑をかけてしまった」との思いがあったことを説明しています。

しかし、こうした不便さを抱えている現実があっても、申し込み方法を変更する予定はないとしています。「どうしても難しい場合はコールセンターに問い合わせてもらったうえで個別の対応を検討したい」と理解を求めています。

人間世界においては、他者からの要望に対して応えられる場合とそうでない場合があります。それは、それぞれの都合で発想し、動き回るからでしょう。人は顔かたちが、一人ひとり違うように、当然ながらその思いも異なります。さらにはその思いの中身も異なるのです。それゆえに、要望がかなえられたとしても、すべての人が同じように満足のいく結論を得ることはできないでしょう。したがって、どこかで妥協せざるを得なくなります。

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イエスの時代にも同じように、人間の身勝手さからくるイエスへの反発の動きがみられます。イエスは当時の人々に親切な言葉と行い、人々への温かな配慮を施し、示し続けますが、人間の度量の浅さに突き当たります。人々の理解のなさ、視野の狭さ等が誘因となって引き起こされたイエス排除の動きです。

では群衆は、イエスのどんな発言につまずいたのかといえば、「 朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」という言葉です。そして、イエスにいいがかりをつけます。つまり、「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。」これはいわば、イエスがこれから展開していく信仰の世界に対するユダヤ人の信仰との対決姿勢を感じさせます。したがって、イエスの言葉を素直に受け入れることができないのです。どうしても、「この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。」(マタイ13章55~56節)という人間の常識の考え方の範囲を超えることができません。

いつものイエスだと、民衆の反応に対して丁寧に理解しやすいように説明を加えたりしますが、きょうの福音のメッセージに関しては、イエスはご自分の意図しているところに皆を引き込もうとします。妥協しないのです。それで、多くの弟子たちがイエスのもとを離れ去り、去っていきます。それに対しても引き留めようとはなさいません。だからと言って、おっしゃったことに訂正を加えようとか、言い方を変えようとかもなさいません。

イエスを熱心に探し求め、会いに来た群衆だったのに、結果としてはイエスとの間にズレが生じてしまいました。イエスを「探し求めた」のは、しるしを見たからではなく、パンを食べておなかが満腹したからなのです。すでに始まりからそのズレは始まっていました。そもそも「人間の常識範囲」を超えることができない、というのがそれを示しています。

イエスの言葉は、話しながらその中身を濃くしていくのに、群衆は探し求め始めた時からの思いからどうしても離れられないのです。それゆえに、ますますイエスと群衆の隔たりは広がっていきます。

人間にとって、今のわたしたち信仰者にとって困難なことは、神に身を開くことによって、自分の考えを是正していくことでしょう。かつてのユダヤ人が、イエスをせっかく探し求め、イエスにたどり着いたのに、「しるし」を見ずに、自らの「常識」を超えることができなかったのと違って、わたしたちは「しるし」を見てはいるのですが、そのつもりなのに、だからこそでしょうか、自分を正していくのが難しいのです。いつも葛藤です。葛藤できたらまだいい方です。そこにあらたな「しるし」を見つけられるかもしれないからです。

九電さんはどうかわかりませんが、民衆の声に対して「変更予定はない」と答えています。その本当の理由は分かりません。少なくともイエスと同じではないかも、・・どうでしょう。

イエスは「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。」ということを掲示することが、いかに重要であったかということです。だから、その姿勢を変えませんでした。

これはとりもなおさず、まことの「自分」がどんな者なのかを提示されていると言えるでしょう。

 

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