年間第12主日(B年)の説教=マルコ4・35~41
2024年6月23日
わたしたちの生活は、人口の減少・増大現象に伴い、それに連れて現れる問題に、大きな影響を受けてしまいます。もちろん、人口が減っても問題、増えても問題があるのです。でも、今は「減少」の方が厄介な問題になっています。
河合雅司さん(作家・ジャーナリスト)は、人口減少について、その著書「未来のドリル」の中で次のように論じています。
「コロナ禍は、人口減少を加速させることになったが、同時に付け焼き刃的な人口減少対策を浮き彫りにした。日本の総人口がピークを迎えたのは2008年の1億2808万人であるが、実質的な“人口減少元年”を調べてみると、東日本大震災が起こった2011年である。この年を境にして前年の人口を上回る年は見られなくなったからだ。しかしながら、各企業が人口減少に危機感を覚えたのはもう少し前であっただろう。消費や働き手の中心世代である「生産年齢人口」(15~64歳)が1995年の8716万人を頂点として減り始めたためである。その後、生産年齢人口は下落傾向が続き、2020年10月1日(概算値)は1995年と比較して、1250万人も少ない7466万人にまで落ち込んだ。総人口に占める生産年齢人口の割合も1992年の69.8%をもって下がり始めている。2018年にはついに6割を切る水準にまで下落し、2020年は59.3%(概算値)となっている。」と。(gendai.media/articles)
河合さんが指摘している「付け焼き刃的な人口減少対策」は、結局は功を奏さなかったということでしょう。だから「付け焼き刃的な」という表現になったのでしょうか。現に、今では人口減少からくる人材確保の極端なまでの困難さは、人々を生活の窮地に追い込んでしまっています。
いくら便利で楽な、快適な生活が出来ていたとしても、日々の生活が順調に進んでいかないと気分もすぐれませんよね。いわゆる心身の健康・安全・安心を享受できないのです。やはり最終的には人は人を求めます。人、特に親しい家族、友との語らいは、生きる潤滑油です。
「将来も公共交通体系が維持できるか危惧」「過疎地域では限界」という見出しが目につきます。鹿児島県下の過疎地域では、悲鳴が上がっています。
2020年の地域交通法改正で、交通体系の将来像を示す地域公共交通の作成が自治体の努力義務となりました。積極的に取り組む自治体もあれば、未着手や業務の外部委託も目立ち、温度差がみられます。(南日本新聞2024年6月17日朝刊)
交通体系づくりには地域全体の取り組みが求められる中、「プレイヤー=担い手=が少なかったり高齢だったりと、過疎地域では限界がある」と伊佐市。屋久島町は「地理的、社会的要件が厳しく、解決に向かう妙案もない状況だが、なにができるか検討したい」と模索しています。バスやタクシーの乗務員不足や高齢化は、路線維持や委託先確保に影を落としています。大崎町は「特に大隅半島は減便や廃止の路線が増える想定があり、4市5町と交通事業者、県と協議する体制構築が急務」と危機感を抱いております。
やはり人は大事です。そして、その命は他者のために奉仕することができて初めて、自分でも生きていることの実感を覚えることができるような気がします。その奉仕によって誰かが助かり、喜んでいる姿を見て、自らの充実感が倍加してきます。
だからこそ、イエスは人を大事になさいました。弱さを、醜さをたくさん持ち合わせているとはいえ、いつも神の関心の的になっている存在であることに間違いはありません。今日の福音において、このことを見ることができます。
今日の福音はあらしのエピソードです。イエスが人々の前で話されるとき、弟子たちも一緒に耳を傾け、聞き入っていました。その後、イエスから身近に、より深くイエスのメッセージの中身を知る機会に恵まれていたのです。それだけに、別に選ばれたものとしてイエスにかわいがられ、他の人々よりも優越感に浸っていたのではないかと。そして、イエスに対する信仰にも自信があったのでしょう。それが、嵐の体験によって、もろくも崩れ去っていきました。弟子たちのダメさ加減がさらしものにされたのです。
イエスの言葉に従って弟子たちは向こう岸へ渡ろうと舟を漕ぎだしました。そこへガリラヤ湖特有の突風が吹きだします。漁師であった弟子たちでさえ、震えてしまいそうな強風でした。弟子たちは慌てふためいて思わず口に出してしまいました。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と。弟子たちの心は騒ぎ立ちますが、イエスは動じることなく艫の方で眠っておられます。そして、おもむろに立ち上がり、波風に命じ、それを黙らせます。これはイエスの中で神が働いた結果でした。
同じ船に乗っていたイエスと弟子たちの違いは何だったのかを、イエスは指摘なさいます。つまり、弟子たちの慌てぶり、落ち着きのなさは、神に委ねきれない弟子たちの臆病さから来たものだったということです。イエスは静かにふるまい、弟子たちはその逆でした。イエスの権威は神に信頼している信仰にあったのです。そのイエスにしたがうことによって、弟子たちはイエスが信頼する神の方へと導かれていきます。イエスはこのことを弟子たちに教えたかったのです。
あくまでもイエスは人を、民衆を、弟子たちを相手にします。そして、大事になさいます。さらに、神を人々に示されるのです。それは「イエス流」の見せ方、示し方です。わたしたちも、「私流」の道を求め実現していきましょう。それによって、誰かを神の方へと導く機会となっていきます。その機会を、他者にたくさん提供できるようになっていくとき、「わたし」の信仰の充実感も同時に増して、強くなっていくのではないでしょうか。
それは、日常の普段の生活現場で成就していきます。
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