『復活節第5主日』の聖書と説教はこちら

年間第12主日:恐れるな、思い出せ!お前の命は神の保護のもとにある

この記事は約5分で読めます。
年間第12主日(A年)の説教

2023年(A年)説教の年間テーマ=み言葉は「救い」の見極め

年間第12主日(A年)の福音=マタイ10・26~33

2023年6月25日

人も国も「協力し合って」存在するはずが…

わたしたちは本来、「協力し合って生活する」存在なのに、いさかいを起こしてしまう存在にもなります。慮りが行き過ぎてしまうことがあるからです。その結果、お互いを受け入れる準備はいつもできているのに、なぜか冷たく無関心を装ってしまう始末です。この迷路にはまり込んでしまうと他を無視し、拒絶し、自らも、人間(他者)の心の固さにぶつかって跳ね返されてしまうのです。そして孤独感に陥り、苦しみに追い込まれていきます。 

極端になると、他者の生活に敵意を持つ邪魔者扱いされることがあります。それが行き過ぎると、単なる喧嘩、いさかいで終わることなく、それ以上の、しかも国と国の喧嘩、戦争にまで発展することにもなりかねません。「協力し合って」生きようとするすばらしい面が全く消え失せてしまうのです。今まさに、世界がその真っただ中にあるような気がします。

今や世界の大国になった中国。地球上の平和と安定した穏やかなわたしたちの生活は、アメリカと中国が安定した両国関係を維持発展させていくことがいかに大事であるのか、今のマスコミ界はそのように報道しているように見えます。

「緊張」は互いを成長させるエネルギーにも

「野心を抱く」というのは、わたしなりの感覚では、別に悪いことでもない、大切な人間の「欲」であろうと思います。その欲をどのように用いるかによって、良くもなるし悪くもなるのでしょう。

政治は「駆け引き」であると聞いたことがあります。これがどこまでがまことか否かわかりませんが、・・。

いずれにせよ、いい意味での緊張感はその人を成長させてくれます。したがって、緊張関係にある人と人との関係は、両者をよりよく成長させてくれるエネルギーであるといえるのではないでしょうか。

「習氏は『二大国は平和的共存の道を探し出せる』と強調。『健全で安定した』米中関係を望んでいると訴えた。・・・ブリンケン氏は習氏と会談後、記者会見し、中国と高官レベル対話を拡大させるのが訪中の目的だと説明。責任をもって米中関係を管理することが『米国と中国、そして世界の利益になる』と習氏に訴えたという」との記事が掲載されています。(南日本新聞2023年6月20日朝刊)

誰しもが「平和的共存」を願っています。一人ひとりが自分らしく生きるためにも、人としての楽しい充実した日々を生きるためにも、本来の人としての姿を追い求めることができるからです。何も恐れるものがないばかりか、自分の成長を喜ぶことができます。ところが、現実はそうではないですね。一人ひとりの模範となるような国家間の間柄を、ぜひ構築していただきたいと願っていますが、これは棚ぼた式に転がり込んでは来ませんよね。

平和的共存は古今東西、永遠のテーマなのか

このような現象は今も昔も変わりがありません。イエスの時代にも、日本に生活するわたしたちと、ところは変わってはいますが、同じような雰囲気の社会であったといえます。つまり、現実社会の人間関係は、人間のどうしようもないところが表に出ていて、苦難が強いられる歩みでした。

404 NOT FOUND | 教会のITサポート:826村
826村のテーマは、インターネット教会(電子教会)の研究です。

イエスの弟子たちもその行く先々で、さまざまな苦難にぶち当たり、あまりにも重い大きな壁に立ちふさがれてしまうことがしばしばでした。イエスはこのようになることを見抜いて、弟子たちのことを慮り諭されるのです。イエスはご自分の救いの業を継承するために弟子たちを派遣するのです。今日の福音はその際の話です。

今の時代もそうですが、人間のいいところが発揮されるのはほんの一瞬だけのような気がします。いい状態が長続きしないのです。どうしてでしょうか。長続きしたところで、そのうちに人間の醜い面が頭をもたげてきます。それに抵抗できないでいます。そっちのほうが魅力的なんでしょうか。嫌な思いをすることはわかっているのに、・・とわかっていても負けてしまっている自分に気づくことがあります。いいことをするには、やはりその勇気が必要です。これまた「恵み」ですよね。

現在の恐れも、未来の恐れも、恐れるなかれ

いずれにしても、宣教活動に向かう弟子たちの道は、平坦なものではありません。必ずしも快く弟子たちを受け入れてくれる人々だけでもありませんので。そのような状況下にあって、宣教活動に出ていく弟子たちへ向けられたイエスの言葉は「人々を恐れるな」でした。どんな人々なのか、それは、弟子たちを迫害する人々のことです。弟子たちを地方法院に引き渡し、会堂で鞭打つ人々です。

こうした現実に出くわすと弟子たちは当然のごとく、その心は揺り動かされます。孤独感、疎外感に襲われ、耐えきれなくなってその使命を投げ捨てようかとまで追い詰められるのです。いわゆる、神の言葉を伝えることをやめ、その人々と妥協してしまおうかとの誘惑にまけそうになってしまうことだってあり得ます。ましてや、自分の命が危うくなると、使命を放棄したくなるでしょう。どうしても、今のわたしたちは「自分」を天秤にかけると「使命」よりも自分自身の「思い」「やりたいこと」が重くなってしまいます。

弟子たちと同じような境遇に置かれることはありませんか。むしろ、そのような境遇を、自らが作ってしまいたくなるような「安易さ」「誘惑」がないでしょうか。それにしても、わたしたちは神の保護のもとにあります。(28~31節)だから、現在の恐れも未来の恐れも、恐れるなかれ、なのです。行うべきことは「明るみで言い、屋根の上で言い広める」(27節)ことでいいのです。今は覆われていて真実を認めない人びとのためにも、イエスの言葉を伝えるのです。それはとりもなおさず、人々の前でイエスを公然と認めることです。そうすればイエスも「天の父の前で」そのような弟子を仲間と認めてくれます。

だから、わたしたちが、本来のよりよく「協力し合って」生きるよう、イエスは「恐れるな」と、今日もわたしたち一人ひとりにささやき、励まし続けておられます。

 

年間第12主日【6月25日】の聖書はこちら

コメント

タイトルとURLをコピーしました