年間第4主日(B年)の説教=マルコ1・21~28
2024年1月28日
お正月のあの悲惨な地震から4週間が過ぎてしまいました。その間の気象状況は寒かったり、暖かい日があったりと、どちらかといえば暖冬の感がする日々でした。これからが冬本番の寒さ、冷たさが来るのでしょう。
能登地震、輪島市の7階建てビル倒壊は驚き
でも、被災者の方々にとってはそれどころではないです。天気のことも心配ながら、もっと深刻な心配事は、日々を生きることです。水道管の破損による断水がいまだに続いています。復旧するのが3月から4月ごろになるという話し。そのせいもあって、他県からの個人のボランティア活動も受け入れが困難な状態です。
毎日、地震発生後の現地からの中継に加えて、これまでの経過と現状が報道されています。中でも、強く印象に残っているのがビル倒壊のニュースです。
この地震で多数の建物被害が出ましたが、輪島市の7階建てのビルが倒壊したのには驚きでした。真横に倒れていました。どうしてこうなったのか、現場を調べた東京大地震研究所の楠浩一教授(耐震工学)らのチームは、地下の岩盤に打ち込まれた一部の杭が損傷して傾いた結果、その他の杭が建物の基礎部分から抜けたと推測しています。これは「今回だけの特殊な事例ではない」と注意を呼び掛けています。(南日本新聞2024年1月23日朝刊)
こうした事件が起きるたびに問題になってくるのが建築基準法の耐震基準です。ちゃんと守られていたかどうかです。1978年の宮城県沖地震による建物被害を受け、1981年に厳格化されました。ただ、楠氏らによると、新しい耐震基準は、基本的には建物本体が強化の対象で、杭の強度に関しては巨大地震を明確に想定していないとのこと。楠氏は「他の地震で巨大地震があれば同様の事態が起こりうる」と強調しています。現に、複数の建物が傾いていたのが確認されています。
耐震基準に客観的な権威はあるのだろうか?
石川県のまとめによると、22日午後2時現在、県内で3万7千棟超、うち輪島市では1100棟を超える住宅被害が確認されています。
原発の問題も同じですが、施設の規模が大きく、そして、わたしたちの日常生活にとって大事な事柄だけに、その是非に関して判断する客観的な権威ある基準がどうしても大事になってきます。しかし、いくらそのような基準を作ったとしても、「絶対的に」安心できる内容にはなりません。あくまでも「相対的」なのです。なぜって、その基準にしても、原発の機材・設備等全体も、人間の業(産物)であるからです。「絶対に安全」とは言い難いでしょう。現に、福島の原発問題はいまだに住民の心身ならびに生活等に、大きな悩みと苦しみを与え続けています。きちっと基準にしたがって建築された施設であったにもかかわらずです。
人の世界ではすべて、完璧なもの、絶対的なものはあり得ないということになります。すべてが人間の作り上げたものである限り。それでも、安心できる何かの根拠は必要です。ここに、権力と権威の持つ力が意味を成してきます。
「権力」と「権威」の違いを考えてみると…
「権力」と「権威」は、いずれも他者に対する影響力や支配力を持つことを意味しますが、その影響の根拠に違いがあります。権力は、主に地位や権限に基づいて他者を動かすことができます。政府や上司などが権力を持つ例です。権力を持つことで、命令や制約を加えたり、報酬や罰則を与えたりすることが可能です。
一方、権威は、主に専門知識や経験、信頼に基づいて他者を動かすことができます。教師や専門家などが権威を持つ例です。権威を持つことで、自らの意見やアドバイスが尊重され、他者の行動や意見に影響を与えることができます。(意味解説辞典参照)
「イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」
今日の福音の始まりのことばです。イエスが初めて公の民衆の前に現れ、教えを語ります。それまではナザレの小さな村で、ヨゼフとマリアという素朴な両親のもとで暮らしていた無名な人物でした。ましてや特別な何かをイエスに期待するもの、こともないし、期待している人もいなかったでしょう。ところが一度口を開くと、人びとはその教えに圧倒されたのです。教えだけではなく、イエスという人の存在そのものに驚いたのです。
イエスという存在そのものが、すでに”権威”
考えるまでもなく、わたしたちの世界では、権力とか権威は他の人から賦与されて初めて、その効力を発揮するものでありましょう。つまり、他の人から尊敬され信頼されて、権威ある者とされるのです。そのためには、その人が真実で誠実な人生の歩みから生み出されてきた知恵や知識を伴っていることです。そうあってこそ真の権威といえます。したがって権威とは、その人が生き、積み重ね、育ててきた人生の知恵、生命を他の未熟で未完成の魂の中に伝え、与えていくためのものでもあるということができます。
イエスはまさにこうした存在者になって人々の前に現れたのです。否、権威そのものだったということができます。だからこそ、人々の心に素直に、すっと響いてきたのです。もちろん、イエスの中に偽りやごまかしを見ることはできなかったでしょう。語る言葉の中に、人間的なはったりや虚栄、誇張を感じとることもできなかったでしょう。さらには、律法学者が掟を説くときのように単に言葉や教説をもてあそぶこともなかったでしょう。イエスが教える「神の国の福音」は、イエスその人のうちに実現しているからです。イエスという存在がすでに「教え」なのです。イエスの「権威ある教え」の例が「汚れた霊の追放」です。
イエスは他の人からの評価がどうであれ、悪霊の支配を終わらせ、神の国の支配を告げる「神の聖者」なのです。それゆえに、人々はイエスの中に、神の子の神秘を感じ取っていったのです。
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