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年間第3主日:子どもの単純さ、純粋さがいちばん!それがイエスに出会う近道

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年間第3主日(A年)の説教

2023年(A年)説教の年間テーマ=み言葉は「救い」の見極め

年間第3主日(A年)の説教=マタイ4・12~23

2023年1月22日

温泉と言えば指宿、霧島などが連想されたり

みなさん、指宿、霧島、別府、雲仙、嬉野という町に共通したもので、何があるでしょうか、と尋ねられたとすれば、なんと答えましょうか。ここがお好きな方々にはすぐにおわかりかと思います。そうです、「温泉」が出る町です。

何も九州だけでなく、日本列島は火山列島です。したがって、北から南まであらゆる地域、町に温泉が出るんですね。中でも、諸説あるでしょうが、「日本三名泉」と呼ばれているのは、「有馬温泉(兵庫)」「草津温泉(群馬)」「下呂温泉(岐阜)」の3つの温泉です。また、宿泊客数での三大温泉は、➀箱根温泉、②別府温泉、③熱海温泉だそうです。(「じゃらんネットニュース」)

特定の姓が多く、出身地が推定可能な地域も

温泉の町と言えば衆人が知るところですが、知る人ぞ知るというような話もあります。今はどうなのか、置かれている状況が以前とかなり変わってしまったので、定かではありません。と言いますのは、みなさんも故郷に帰るとわかることです。ある集落は「福永」、隣の集落は「山下」と言うように、同じ名字の人がたくさん生活している集落があったのではないですか。名字を聞けばどこの集落の出身かがわかっていました。今では、そのふるさとの人口がかなり少なくなって、集落そのものが崩壊してしまっているのではないかと、・・。

往々にして、一言で概要が分かる場合がある

このようにわたしたちの身の回りでは、詳しい説明、情報がなかったとしても、ある一言で、大まかではあっても状況、内容が汲み取れる場合があります。そこから新たなコミュニケーションが始まり、話題が展開されていきます。そして、互いがより親しくなり、それによって互いが信頼の心を深め合い、さらなる出会いへと飛躍していく機会ともなっていきます。

今日の福音書でマタイは、イエスがどのような人なのかを知り、さらに深めていく機会をわたしたちに提供しているように思います。

今回は”ガリラヤ”という名に注目してみたい

四つの福音書の中には、カタカナの固有名詞が、まとまって書き記されている個所があります。きょうのマタイ福音書では、いくつかの地名が出ています。その中でも、わたしは「ガリラヤ」という名に注目してみたいと思いました。

年間第3主日:イエスはガリラヤで宣教を始め、4人の漁師を弟子にした
年間第3主日(A年)の福音=マタイ4・12~23 イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。

「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた」という言葉からきょうの福音は始まっています。この言葉を聞いて何を感じられますか。どのような響きを覚えますか。表現そのものから受ける言葉の印象は、言葉の奥にある意味合いは、イエスはヘロデに恐れをなして逃避したのかなという印象を受けてしまいます。みなさんはいかがでしょう。要するに、ヨハネが捕えられたというのであれば、自分も危ないと考え、一時的に身を隠そうかなと行動したのではないかと、・・。

当時の常識では、ガリラヤは異邦人が住む地

ところが、そのガリラヤを統治していたのは、ヨハネを投獄したヘロデだったのです。ですから、イエスにとってはナザレにいる方がずっと安全であったはずです。なのに、敢えてガリラヤに赴くということは、自ら危険に身をさらす選択をしたことになります。これは何を意味するのでしょうか。

そもそもガリラヤはどのようなところなんでしょう。ヘブライ語では「ガーリール」といい、「輪」「周辺」「地域」を意味するそうです。山地の周りに町が立ち並んだ様子から、この地名となったと言われています。(小型版「聖書辞典」キリスト新聞社)そして、そこは、残酷なヘロデが支配している地方です。そこは首都エルサレムから、北の方に遠く離れた地方に当たります。また、ヨーロッパとエジプトを結ぶ交流拠点の中心になっていたこともあり、異邦人が絶えず出入りする地でもあったのです。したがって、宗教的に見ると混乱した地方都市でもありました。それゆえに、中央都市・エルサレムからは常に軽蔑され、貧しい地方でした。

「ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが 後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。闇の中を歩む民は、大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」と、イザヤはガリラヤを「異邦人の」住むガリラヤと決めつけています。そして、この言葉は、ガリラヤが置かれていた紀元前8,7世紀の姿を示しています。つまり、諸外国、当時の大国アッシリア、エジプト、バビロンからの侵攻を受け、実に悲しい歴史を刻まざるを得ない状態にあったのでした。それで嘆きと悲しみの町だったのです。

辺境のガリラヤは後にイエスの宣教の中心地

したがって、「ガリラヤ」という言葉を聞けば、イエス時代の人々は、こうした歴史を持つ町、地方であることを直ぐに悟ったのです。こうした町にイエスは敢えて入り込み、新しい希望のともしびをともそうとしたのでした。軽蔑と悲しい町にあたたかい炎をともそうとなさるのです。ヘロデから逃げようとしたのではなく、イエス流の挑戦をヘロデに向けようとして、「ガリラヤ」に退かれたのです。後に、ガリラヤはイエスの宣教の中心地となっていきました。

このように、イエスは、ご自分がなさろうとしている業を前に、人々に求めます。「悔い改めなさい」と。子どもたちはどの国の子どもでも単純ながらも、純粋な心で、信頼の心をもって親に、大人についていきます。ガリラヤの人にその心をお願いするのです。その心がある限り、いくら暗闇の中にあっても、イエスとの出会いを叶えることができます。

今の「わたし」はどうでしょうか? 闇の中にいる自分の真実を悟り、認めている自分でいますか。自分を信じ、自分の力を信じるとは言っても、それは神の力添えがあってのこと、だと認めている自分でしょうか。

イエスの前に額づいてみましょう。

 

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