年間第26主日(A年)の説教=マタイ21・28~32
2023年10月1日
失敗の繰り返しを気にしている間は良い
「後悔先に立たず」ということばがあります。その意味は重々に分かってはいますが、知っているだけで、わが身に染みこんでいない言動が、日常生活でしばしばです。物事が終わってから悔やんでみても取り返しがつかない、という現実はよくわかっています。ところが実際にはその繰り返しが、またもそして、今度もかという具合に同じことをしでかすのです。
そもそも、同じ失敗を繰り返すことを気にしている間はまだ救いがあるといえます。自由でありたい、束縛されたくないという気持ちから、自分の思うように行動していたからこそ、自分の心が落ち着きを失くしたり、不安感に揺さぶられているという意識があるという証になっているからです。
本来、自分(人間)としてのあるべき姿ではない、どこか間違っているという感覚が、どんな人にもあらわれてくるのではないでしょうか。これは良心の働きといえるのです。はっきりと断定できるほどの悪いことをしていなくても、生きる姿勢が充実していないとか、その時に出てくる「しらけ感」あるいは虚無的な気分は、人間としてのあるべき生き方を見失っている状態のときに出てくるものです。これもまた、良心の働きといえます。
それは、良心がしっかり働いている証拠
良心の働きのない人はいません。それは神が、わたしたち一人ひとりの人間の心の奥に焼き付けられたものだからです。言うならば、人間としての歩むべき道筋を自ずと感じ取ることが出来る心の羅針盤のようなものです。
みなが体験しているように、毎日、わたしたちは試されて生きています。つまり、絶えず何かに挑戦しながらの日々ではないでしょうか。官能的な衝動に引きずられそうになりながらも踏ん張り、はたまた、権勢欲、名誉欲、虚栄心に身を晒しながら生き続けています。このような状態にある時も、良心はしっかりと働き続けているのです。ただ、その働きに気づかないほどに引きずられている力が強いということです。したがって、良心が発する声の力は弱くなっています。
それでも良心は働き続けるのです。わたしたちが生きている限り、絶えまなく働き続けるのです。その良心の働きを無視しようとしても、もっと力強く声を挙げます。それでも無視し続けると、人間としてのまともな姿が蝕まれていきます。さらには、人間性そのものが育たないままに、危機状態に落ち込んでしまうのです。それも、いつの間にかです。つまりは、良心の育ちがなくなっているのですから、落ち込み続けるしかなくなります。
良心の声を無視し続けると、人は危険に
今日の福音は、神殿から商人を追い出したイエスに詰め寄った、祭司長や長老たちに対するイエスの批判となっているたとえ話であるといえます。彼らは律法を守ることによって、神からの勧めにしたがったエリートであるという自負心がありました。またそのように民衆にも語っているのです。
今日の「二人の息子」のたとえ話では、弟は胸を張って父親に向かって答えています。弟は彼らの姿を象徴しているといえないでしょうか。「弟は『お父さん、承知しました』と答えた」ということばを直訳すると、「わたしは準備ができています、主よ」という、まさに自信に満ちた自負心を感じさせる言葉に聞こえます。とは言いながらも、よくよく考えると、父の指示に従おうとする気持ちを持ち合わせていなかったわけではないな、ということを感じさせる言葉でもあるような気がします。でも、いかなかったのです。
他方、兄はどうかといえば、自由でありたい、束縛されたくないという気持ちからか、最初は父からのお願いに対して、反射的に「いいえ」と答えます。その後も、しばらくは自分の思い通りに生活していたのでしょうが、父の申し出を断ったということに対する何かのうしろめたさを感じたのでしょうか、多分落ち着きのない日々を送っていたのでしょう。不安が付きまとっていたのではないでしょうか。そして兄は「思い直して」出かけたのです。
自分の好きな、やりたいことに没頭していたとしても、どこか空虚感というか、むなしさというか、しらけの気分があったのでしょう。結局はその良心の声に、兄は気づき、振り返ることが出来たのです。
イエスはたとえを語り終えると、それを祭司長たちの生き方に照らし合わせて語りを続けます。例えの兄は、「後で考え直す」ことが出来ましたが、祭司長たちは「考え直すこと」がなかったといいます。というのは、娼婦や徴税人たちはヨハネが来て、悔い改め、神への義の道を示すと、それを信じたけれども、祭司長たちは信じなかったからだ、と言われます。その上、その後も考え直す時があったにもかかわらず、その機会を活用しなかった人々であると批判します。
今日の大事なことばは「後で考え直す」
だからこそ、今日の大事な言葉は「後で考え直す」ということです。その意味は、残念に思い、悔やむことですが、同時に、「考えを変える」という意味合いもあるそうです。たとえ話の兄は、最初、父の申し出に対して「ノー」といった時の考えを変えて、ブドウ園に出かけました。つまり「考えを変えた」のです。悔い改めると同時に、行動に移したのです。
イエスを裏切ったあのユダは、取り返しのつかないとんでもない裏切りをしでかしたことに気づいたのです。しかし、後悔はしたんですが、「考え直す」ことに気づかなかったのです。だから、最悪の別の道を選んでしまいました。自分を見失ってしまったのでしょう。彼には何が足りなかったのでしょうか。
第一朗読に示されています。「彼は悔い改めて、自分の行ったすべての背きから離れたのだから、必ず生きる。死ぬことはない。」という声をユダが聴いていたなら、死ぬことはなかったでしょうにと思ったりします。
神はいつもささやきかけています。神の「ささやき」が良心の声です。その声に気づきましょう。エゼキエルが言うように、「必ず生きる」のです。振り向いて自分の足跡を見つめ、悪に見切りをつける限り、・・悪に身を任せることないのです。死ぬことはないのです。
いつも、体の健康と心の安泰を大事にし、
バランスの取れた人生と神の呼びかけ(良心)に目覚めましょう
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