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諸聖人:普通の人だった聖人たち、だからもっと交わって、さらなる成長を

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諸聖人(A年)の説教

2020年(A年)説教の年間テーマ=「応えていますか、いつも」

諸聖人の説教=マタイ5.1~12a

2020年11月1日

世界中のどの宗教にも、大事にしている「祈り」があると思います。カトリック教会では、ミサの中に「信仰宣言」という祈りがあります。「…聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちを信じます」という祈りです。

その中の「聖徒の交わり」という言葉は、この世の旅路を終えて天国に入った聖人たちとの交わりを指しています。その聖人たちを記念し、お祝いする日が今日の祝日です。わたしたちにとって、有名な方か無名な方かは問いません。現世の悪と戦い天国に凱旋したすべての方々のお祝いなのです。教皇グレゴリオ4世が、この日を「諸聖人」の祝日と定めました。

聖人たちは、わたしたちと同じ人間性を持ちながら、それぞれの置かれた境遇、慣習の中にあって、それぞれの独自の考え方、自分の生き方で、キリストの生き方を自分の生き方にしようと努力した人たちです。それで、どの聖人もキリストに似た特徴を持っています。したがって、諸聖人を讃えることは、実は唯一の聖なるお方・神を賛美し、あがめ、礼拝することなのです。

聖人たちの生き方に神の何かが表れている

いわば、聖人たちは、キリストがその短い生涯の宣教活動中に、十分に輝かすことができなかったご自分の特徴を、継続、発展させたということができます。パウロが言うように「 今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」と。(コロサイ1章24節)

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別の表現をするならば、神はわたしたちの目に見えない存在ですが、聖人たちの姿、生き方に、神の存在の何かが、つまり、神の憐れみや愛や知恵が映し出されているのです。また、パウロの言葉を借りるなら「 生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテアの信徒への手紙2章20節)という自分なりの生き方を示した方々なのです。

聖人になるには、どうしたらよいのか?

とはいっても、彼らもはじめからそうした生き方を生きてきたというわけではないでしょう。多くの方々がそうであるように、彼らの中にも欠点だらけのどうしようもない生き方をしていた人もいたのです。日常の平凡な生き方をしていたのです。それが、神の意向に適う生き方を求め続けたのでした。

その典型的な姿かなとわたしが思うのが、聖トマス・アクィナスとその妹の会話にあります。妹がある日、兄に向かい「聖人になるには、どうしたよいのですか」と。聖トマスは簡単に「望みさえすれば、それでよいのだ」と答えたのだそうです。

また、幼いイエスの聖テレジアも祈り願っています。自分の弱さを知っている彼女は、神のみ手にすべてを任せてこう言っています。「わたしはいつか、大聖女になるという大胆な信頼を持ち続けています。わたしは何も持っていませんから、わたし自身の功徳に信用しません。わたしはただ聖徳そのものにてまします主にのみ信頼いたします」と。

「聖人になる」とは、何か特別な修行をしなければいけないというのではなく、ごく普通に生きている中で、自らの能力を知り、託された勤めを普通に履行し、そして、死ぬまで完徳を望み続けることではないでしょうか。だからこそ、聖アウグスティノも言っています。「聖人や聖女は人間であって、わたしも人間である。あの人たちにできたことが、どうしてわたしにできないことがあろうか」と。

「われわれが天の住人の記念を尊敬するのは、単に彼らの模範だけではなく、それ以上に、全教会の一致が兄弟的愛の実践を通して霊において固められるためである」(エフェソ4章1節~6節参照)と、第二バチカン公会議は述べています。(教会憲章50番)

霊名の聖人を知り、その生き方に倣いたい

中でも、わたしたちにとって身近な存在で、尊敬しなければいけないかなと思う聖人は、霊名の聖人でしょう。そのためには、少なくとも聖人の生涯を知っておくことでしょうか。そして、その取り次を願い、交わり、日々の通常生活の中で、その手本にならうことが「わたし」にとっての身近な聖人への道ではないんでしょうか。

今日の福音書の山上の説教での「幸い」は、まさに、イエスからの具体的な招きの言葉ではないでしょうか。まさに、「聖人になる」ために、「あなた」の日常の目標を見つめてみてはどうですか、という呼びかけでしょう。

うれしい時、楽しい時、逆に、悲しい時、さびしい時、いずれの時にもわたしたちは祈ることに招かれています。日常、多くの方々と交わりをもって成長していくわたしたちです。聖人との交わりをも持ちながら、人として、また、信仰者としても、さらなる成長を祈り願い続けましょう。

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