年間第14主日(A年)の説教=マタイ11・25~30
2020年7月5日
2020年はワクワクする年のはずが…
2020年は、日本人にとって、そのほとんどの方が楽しい、期待に胸はずませながら待っていた年ではなかったでしょうか。そうです。オリンピックイヤーでしたから、・・。それが一転、不安と心細さに覆われた悩み事多き年になってしまいました。新型コロナウイルス感染拡大によって、わたしたちの日常生活が全く変えられてしまったからです。
これって、ひょっとして、これまでの人間の歴史の中で、人間がその「慢心」をむき出しにしてお互いの生き方を左右し、支配してきた結果なのではないかと、ふと感じてしまうほどに、今の世界がそうなっていませんか。つまり、もっと他者を意識し、大切に思い、それによってお互いが支えられていることにもっと気づきなさい、と言われているような気がするときがあるのです。
新型ウィルスで暗転、日常はどこへ
体験してわかることですが、この新型ウイルスを前に、わたしたちほとんどの人間は、なす術がありません。直接ウイルスに向かって対抗処置は取れなくても、それでもできることをしようとして、取り組みかたをさがしている姿があちらこちらで見られます。
「爪の間も忘れずに。親指クルクル洗いましょう~♪」―。鹿児島県出水郡長島町の町立鷹巣小学校の児童らが手洗いを呼びかける歌をつくり、休み時間に放送しているそうです。(南日本新聞2020年6月27日朝刊)新型コロナウイルスの予防を、楽しみながら実践しようと保健委員会の5,6年生が発案。低学年にも正しい洗い方が伝わるように親しみやすい歌詞になっています。
感染予防『新しい様式』始めた児童
新型コロナに伴う休校が明けた5月中旬、保健委員会の7人が「予防のためにできることをやろう」と歌作りを始めました。手洗いの時間として推奨されている約30秒で歌い終わる曲を探し、童謡「もしもしカメよ」を選択し、歌詞を二番まで考えました。水洗いで済ませる児童もいたため、「せっけん付けて洗いましょ」から始まり、「手のひら洗って手の甲も」と続き、最後は「これでコロナも吹っ飛んだ」で締めくくられています。担当の上水樽知教諭(49歳)は「児童が自主的に動いてくれれば『新しい生活様式』の習慣化にもつながる」と手応えを感じているようです。
一人ひとりが思い、感じていることを出し合うことによって情報を共有し、それが大きな輪となって全体に波及していきます。やはり、事は基本的に「我」から始まるということでしょう。同小学校の6年生濱芽衣香さんも言っています。「一人ひとりが対策をすればコロナは防げるはず」と力を込めています。
しかし、わたしたち一人ひとりは大した力、影響力を持った存在者ではありません。ましてや、人とのかかわりの中でその人の労苦、重荷を背負って生きるなんて到底無茶な話です。人々の苦しみに対して、全く無力であると言わざるを得ません。なぜって、わたしたちにはエゴイズムがあり、欲望に流された生き方に陥りやすいのです。自らの重荷を前にしてすら、無能な自分に気づいています。
模索する人々の心の底にあるものは
それでも、何かできることはないかと模索していこうとするその姿に、心に、ひょっとして労苦を支え、解決していく力があるといえないでしょうか。「労苦」「重荷」そのものはなくならないとしても、それらを乗り越えていける見えない力が、湧いてくるのではないでしょうか。これが、今のわたしたちの精一杯の愛情表現であると言えるでしょう。それと、祈ることができます。
ですから、今日の福音書でイエスが言っているように「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜なものだから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」と、無差別に人を招くことは、到底できるわけがないのです。
イエスは愛する心と支える力の原点
しかし、イエスには、人の重荷、労苦を解決する力、愛する心があるということです。しかも、すべての人をです。「わたしたち」すべてをつつみ込み、愛する心と支える力があるということになります。
それに比べ、わたしたちには、ある人との愛が芽生えるならば、愛している人の重荷を背負おうとする動きが、確かに出てきます。愛する人を喜ばせ、安心させ、幸せになろうと夢中になります。それでも、弱い人間の限界が頭をもたげてくるのです。
自分が疲れていたりすれば、感情が先走り、気持ちをコントロールできなくなって、心と行動のバランスを失ってしまいます。他の人を拒むつもりはなくても、また、助けてあげたい気持ちがあっても、素直に表現できないのです。思いとは裏腹な言動に出てしまうことが多々あります。
全ての人を招くのはイエスの神秘
結局、現実の重荷と労苦を前にして、わたしたちは支える力もないし、解決能力も持ち合わせてはいないのです。ただ、その人のそばにいて、そして、ともに祈ることしかできないのです。そのことを思えば、イエスのきょうのことば「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」という招きは、とてつもなく重い言葉です。普通の人間にはできないことです。
すべての人を愛する心、支える力、それがイエスの神秘です。魅力です。いつの時代にも、イエスが人々の希望となっていることの原点なのです。イエスが一緒に背負ってくれるからです。他者への奉仕、支援も、このイエスからくみ取った心、動きではないでしょうか。
鷹巣小学校の7人の生徒さんはその心と力をいただいたのでしょう。それは当然、人のためになります。そのためには、日頃から、他者に向けられた「わたし」を目指すことです。
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