
2019年説教の年間テーマ=「召ばれています、いつも」
年間第28主日(C年)の説教=ルカ17・11~19
2019年10月13日
「死ぬんじゃねーぞ‼」‐いじめられている君はゼッタイ悪くない‐とは、ある方の著書のタイトルです。みなさんもよくご存じの中川翔子氏の本です。
彼女は、2002年、ミス週刊少年マガジンに選ばれ芸能界デビュ―。タレント、女優、歌手、声優、漫画など、多方面で活躍なさっています。その彼女が、この本のタイトルについて説明しています。
「みんな、死ぬんじゃねーぞ!!」
「これは、わたしが自分のライブでつい叫んでしまう言葉なのです。引っ込み思案で自信がなかった十代のころ、わたしが心の奥に閉じ込めていた密かな、確かな夢は、いつかステージに立ち、大好きな歌を歌うことでした。今その夢が奇跡的に実現し、ステージの上で、歌と光とお客さんの心が重なったとき、いつもこう感じます。
ああ、生きててよかった。
あのとき死ななかったからこそ、こうして奇跡の瞬間に巡り合えた。
ラストに近づくと、そんな思いが溢れ、会場に来てくれたお客さんへの感謝が高まってきます。また、この奇跡の時間に巡り合えたらいいな。お互いに生きているからこそ、こうして楽しい時間を作れる。一緒にあたらしい思い出を紡げる。どうしても自分の思いを伝えたい!届けたい!という気持ちが最高潮に達して出てきてしまう言葉。それが…『みんな、次に会う時まで誰一人…死ぬんじゃねーぞ!』」(同著「はじめに」より)
彼女は中学のころにいじめがきっかけで不登校になったそうです。悪口、陰口に加えて物理的に目に見えるいやがらせ、最後の砦である先生にも失望してなにもかもに絶望してしまい、心が折れてしまったのです。
「安心感」のある人間関係が一番
「いじめ定義」も時代によって変わってきています。今では、いじめの中には犯罪行為として警察に相談するケースもあり、社会の認識も変わってきたように思います。さらには、SNSを使ってのいじめなども深刻です。時代が進むにつれて、いじめも細分化してきているようです。
彼女自身はおっしゃっています。「十代の心はガラスのように美しくデリケート。興味や知識をぐんぐん浸透させられるやわらかい心に傷がついたら、それは消えないままどんどん深くなってしまいます。感受性が豊かだからこそ、時には死にたくなるほど追い詰められてしまうこともあります」と。だからこそ、幼児期から十代の時期の体験は、その後のその人の生き方に大きな影響を与えてしまいます。
不登校の理由や原因は人それぞれです。だからこそ、周りの人の援助も、ワンパターンではありえないということになるのでしょう。どのように声を掛け、かかわりをもっていけばいいのか。中川さん自身も「いまのわたしなら、あのころ悩みながら夜を過ごしていた自分に、なんて声を掛けるか?そして、まさに今悩んでいる子にどんなふうに言葉を伝えられるのか?」とおっしゃいます。
だれでも、人はひとを求めていく
何といいましても、人はひとを求めていくのです。だからこそ、予想もしない悩み、苦しみに傷つき、自分の居場所をなくしていきます。でも、その逆に、人とのかかわりがあるから、安心できるし、平和な気持ちにさせてもらえるし、元気をいただけるのです。究極的には、「安心感のある」人間関係が一番です。それは、神ご自身が望んでおられることだからです。その中心にいるのが神ご自身なのです。

今日の福音でそのことが明らかにされています。今日の話は、10人の重い皮膚病を患った人の話です。みながイエスに癒されたのですが、そのうちの一人がイエスのもとに戻ってきて感謝をしたというお話です。その人に対してイエスは、「あなたの信仰があなたを救った」と言われます。
長い闘病生活を強いられた方は、体験上理解されると思いますが、少し元気になりますと動き回りたくなります。普段は意識されていないのですが、特別な環境に遭遇しますと、いつも感じないことに気づかされます。わたし自身の体験ですが、結局のところ、元気とともに話す相手、人を求めているのです。
イエスの時代、聖書の中に登場する病んだ人々は、社会からは見放された生き方を強いられていました。冷たい視線を浴びながら、孤独の中に自らの現状をしのばなくてはいけなかったのです。人に相手にされる毎日を求めていたのではないでしょうか。その時が来たのです。イエスがその村の近くをお通りになる、という機会が来たのです。彼らのイエスに対する叫びは、癒しの願いと、それとともに、人々からの温かい眼差しと愛の手助けを求めての叫びだったのでしょう。どうしようもない状態からの救いを逃してはいけないという必死の叫びでした。人間としての共通な願いです。
サマリア人は神のいやしを見た
人の救いは衣食住だけではないでしょう。心の支えとなる、他の人のあたたかな心を必要としています。癒された一人の人・サマリア人は、「自分がいやされたのを知って」引き返したとあります。この「知る」という言葉は、普通は「見る」を意味するんだそうです。この異邦人は何を見たのでしょうか。癒しの奥に働いている神のいやしの手を見たのでしょう。つまり、イエスを通して働いている神のあわれみを見て取ったのです。「清くされた」だけでなく「いやされた」ことに気づくこと、そこに救いがあるとイエスは言われます。それが、神とのかかわりをつなぎとめる入り口となっているのです。通常、わたしたちはそれを「信仰」と言っています。
人は、逆境にあればあるだけ、心の奥で人を求めています。それを言葉にできないことが多いのです。「いのち・救い」に無関心ではおれない神が、それを満たしてくれるのです。神とのかかわりに招いてくださるのは、神ご自身なのです。「あなたの信仰があなたを救った」と。
まさに今悩んでいる子にどんなふうに言葉を伝えられるのでしょうか?
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