年間第3主日(A年)の説教=マタイ4・12~23
2017年1月22日
何気ない姿勢や動作は、実は鍛錬法だったのです
わたしたちは「立つ」「歩く」「座る」という姿勢や動作を何気なく行っています。何も考えることなく、その場の必要に応じて「前に進み、後退し」「立ったり、座ったり」「しゃがんだり、走ったり」します。何気なく行っているこれらの姿勢や動作が、日本の伝統作法では、大切な作法の基本として位置づけられてきました。
その昔は、諸大名や上級武士たちに殿中での振る舞いを指導する礼法として、様々な約束事が生まれたのです。基本的には武士がお上を守るために、普段の生活の中で足腰を鍛える鍛錬法でもあったのです。(「日本の作法」青春出版社)
日本古来の作法には無駄がない、美しい
古来、武家を中心に連綿と伝わる日本の伝統作法・小笠原流礼法で大切にしていることは、無駄のない動き、呼吸を合わせる動き、間を重視していることだといえます。その中で、「実用、省略、美」を追求し、今日に至るまで残され、受け継がれてきた日本の作法ということができます。
「無駄のない動き」は見ている者に「美しい」と感じさせます。例を挙げてみましょう。
「引き戸である襖を左から右へ開ける際に、両手で開けようとすると、引き始めでは右手の上腕部の筋肉を使い、身体の中央を過ぎると、逆に左手の上腕部の筋力を使うことになります。すると、襖には斜めに曲がった力が加わり、しだいに襖はゆがんでしまいます。まずは左手で襖を開け、身体の正面で手を替えて、右手で開くというのが、腕の筋肉に沿った無駄のない動きであり、ものを大切にする所作でもあるわけです。これが古来の作法と形式的なマナーやエチケットとの違いです」との紹介があります。(同上書参照)
伝統的な所作には、科学的、合理的な裏付けがあって、単に、「しつけ」として終わらせることはできないというわけでしょう。「人間の都合で(?)」美しい部分だけが残され、「無駄のない」部分が滑落してしまったのではないでしょうか。
イエスさま流の作法
このような転換は信仰の世界でもあり得ます。いわゆる、神の世界の出来事を人間の世界の枠の中で処理してしまうのです。人間の都合に合わせて、いわば、イエスさまの言葉を歪曲してしまうのです。イエスさまと当時の支配者階級の人びととの対立は、まさにそれであったといえないでしょうか。
しかし、弟子たちは、少なくとも、自信はなくとも、イエスさまの言わんとすることに耳を傾け、心を傾けていこうとしています。
今日は最初の弟子たちの召し出しが描かれています。しかもその場所は、「異国の地」ガリラヤでした。ガリラヤは、エルサレムからは遠く離れ、救いからもかけ離れた、貧しい地方でした。
その地方に行かれたということは、より貧しいところ、皆から見放されたところに行こうとする神のなさり方が満ち溢れています。これがおん父から遣わされた「イエスさま流」なのです。イエスさま流は、無駄のない、美しい、現実的なありかたなのに、イエスさま流の原型を壊してしまい、人間流にすり替えてしまっていくのがわたしたちです。それでいて、文句ばかりを神の前に「祈り」としてささげているのが現実ではないかと振り返ります。
イエスさま流を引き継ぐとは?
そうです。イエスさまは、ちょっとだけ気づいてくれと、わたしたちに言われます。イエスさまの愛とあわれみを受け取る心構えがありますか、と。「悔い改めなさい。天の国は近づいた」と宣言なさいます。受けとめる心があるなら、悔い改めてくださいというのです。自分の弱さ、もろさ、貧しさをはっきりと自覚していますかと促されます。
日本の本来の「礼法」の中身をゆがめることなく受け継がれてきた作法のように、イエスさま流の「作法」は何なのかに戻ってみたいです。否、戻ることができます。弟子たちがそうであったように、・・。
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