年間第26主日(C年)の説教=ルカ16.19~31
2016年9月25日
この地球上にどれだけの言葉があるのかわかりませんが、いろんな国を旅し、滞在経験のある外国の方に聞きますと、人によっては異なるかもしれませんが、ことばの中で一番難しいのが日本語であると言います。
確かに、「わび・さびの世界」といわれてもピンとこないし、ことばの曖昧さは他に類を見ないほどに抜きんでているのではないでしょうか。外国人が初めに覚える言葉は「どうも、・・」だそうです。どこでも使えるし、だからこそ、人を大きく傷つけることもないです。
言葉は人との交わりを保ち、深めるために大事なものであります。それだけに、人に感動を与え、慰めと励ましを与えます。同じことを言うにしても、その言い方、表現の在り方によって、また、もっと言うならば、誰が言うのかによってその響きが違ってきます。この「誰」というのが一番肝心なところでしょうか。
その方が持っている感受性、物事に対する感性、人となりによって受ける影響に大きな違いが出ます。
今日の福音に登場するイエスさまのたとえ話の二人をよく見てください。裕福な金持ちと貧しいラザロが登場します。あまりにも対照的です。一方は気の向くまま望むままに生きている金持ち、他方は、飢え、病に苦しみ、見捨てられた存在者ラザロ。ところが、死んだ後もこの二人は対照的な生き方をします。
どうして、この二人は、この世に生きているときと真反対の生き方になったのでしょうか。金持ちであったことが悪いことなのでしょうか。決してそうではないでしょう。助けを必要としている人を目の前にして、見ぬふりをしたからです。見ても見ていなかったのです。
ラザロはテーブルから落ちるこぼれもので、腹を満たしたいと思っていただけです。その姿を見ていたはずでしょう。にもかかわらず、金持ちは積極的にラザロにかかわろうとしないのです。いわゆる上から目線の生き方をする方の、陥りやすい誘惑にあう姿ではないんでしょうか。
教会は「今」を大事にするように言います。それは、今の生き方のその先に、来るべき世の生き方への繋がりがあるからです。したがって、この世でどのように生きるかがいつも問われ続けられます。
このことに気付ききなさい、というのが、イエスさまの今日のわたしたちへのメッセージでしょうか。わたしたちの周囲に「ラザロ」はいませんか。「ラザロ」に出会った時の「わたし」はどうする?!
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