四旬節第2主日(B年)の説教=マルコ9.2~10
2015年3月1日
時代の流れ、それに伴う科学の発達と便利さの恩典は、人間に何をもたらすのでしょうか。そして、人はそれらをいかに利用し生かそうとしているのでしょうか。年々行われる祭りごとの中にそれらが見えるような気がします。
今、特に話題になっているのが「春節」でしょう。中国の重要な「お祭り」です。日本では年末年始の商戦が一段落し、2月は国内消費が停滞する時期だそうです。したがって、「春節」に合わせて訪日する中国客を目当てに、日本の各業界は特別な取り組みを展開すべく、準備を進めてきたようです。
そこから得られるものは・・。日本人の思いを超えた中国人の行動がありました。何が起こったのでしょう。
今日の福音では「イエスのご変容」の話が登場します。この世のものではない純白の輝きにつつまれるイエスさま、それは地上からぬきんでた、地上の次元をはるかに超えた神の輝きをまとった方であることを知らしめます。それは、何をわたしたちに、・・。
これを体験したペトロは、「どう言えばよいのか、分からなかった」のです。ペトロはイエスさまの最初の弟子の一人です。イエスさまと行動を共にし、誰もまねができないほどの力強い姿、会堂で権威をもって教え、罪をゆるし、病をいやす姿は向かうところ敵なしといった力に満ちたイエスさまの存在を見てきたのです。
あのフィリポのカイザリアでのペトロの信仰告白「あなたはキリストです」という宣言の中には、自分たちの人生の苦しみから救ってくださるメシア、ローマ帝国の支配から解放してくれるメシアという期待感が込められていたことでしょう。
しかし、それは人間の思いでした。神の思いを誤解していたのです。人間の真の救いは、イエスさまの苦難と十字架の死を通してしかありえなかったのでした。このことを弟子たちに分からせたのが、今日の山上でのイエスさまのご変容だったのです。
ペトロが恐怖にとらわれ、圧倒されたとしても不思議ではありません。したがって、ペトロは場違いなことばを発するのです。「仮小屋を三つ建てましょう。・・・」。
この出来事の目的は、明らかに弟子たちの信仰を固めるためであったのです。同時に、それはイエスさまが、おん父が定めたご自分のこれからの道のりを受け入れる「はい」という返事をくだされた出来事でもありました。
イエスさまの中において、神の思いと人の思いが、イエスさま流に合致したのでした。それは、神の子でありながらもそれを固辞しようとはせず、苦しむしもべの姿で、その道を歩まれたのです。ここに愛の姿があります。
コメント