待降節第3主日(B年)の説教=ヨハネ1.6~8、19~28
2011年12月11日
日常、わたしたちになじみのないことば、場所、イメージ等を言われても、そのもの以上の深い、広い内容を連想することはできません。つまり、わたしたちの日頃の生活の中で接点がないからです。でも、それが人の優劣を決定することでもありません。
日本人にとりまして、「荒れ野」(砂漠)という言葉は、それを聞いてどのような場所、雰囲気なのかをすぐに受け止めることができません。ましてや、人に伝えるために表現できるものでもありません。写真とか、テレビ等である程度の想像はできますが、直にぴったりする内容を示すことは難しいです。
ところが、ユダヤ人にとりまして、「荒れ野」は、その言葉を聞いただけでどのような世界なのかがわかったのです。夜は冷え、昼間は太陽の炎天下にあって、その暑さに耐えなければいけない生活を強いられます。さらに、見渡す限りの土の世界、水気も無く、のどが乾ききってしまう環境、不毛の世界なのです。生命の生存をゆるさないきびしい、過酷な世界なのです。したがって、人間を包み込んでくれるあたたかさもあり得ないのです。
わたしは、ユダの荒野、シンの荒れ野を、バスで通過したことがあります。はるかかなたまで土砂漠が続きます。その中で、バスが故障し、3時間半、砂漠のど真ん中で過ごす羽目になってしまいました。聖地巡礼中の出来事です。交通手段を失ってしまった時の気持ちは不安なものです。楽しみのかけらもありません。ちょっと不自由になるだけで、大きなあわてようです。聖地に来ていて、神を感じない、思い出さないこともさびしいことです。心のすさみというものでしょうか。外の砂漠状態よりも、自分の心がもっと砂漠になっているのではないかと感じさせられます。
表ははなやかな生き方をしているようであっても、心は快適とはいかないのが現代人の特徴でしょうか。だとすれば、見失っている大事なものを探さなくてはいけません。そのために声をあげましょう。声を聞きましょう。今日、ヨハネが叫んでいるのは、人々の中に神の姿が消えかけていることを察して、わたしたちに向かって呼びかけているのです。「あなたがたの中に、あなたがたの知らない人が立っている」と。その方を発見しましょう。現代の砂漠に潤いを与えていただきましょう。それも、わたしたち一人ひとりに、・・・。
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