待降節第2主日(B年)の説教=マルコ1.1~8

2011年12月4日

主との出会い

意識しているのか、してないのかわかりませんが、時々子どもたちの中に自信に満ち溢れた姿が見られます。そのような時は決まって、子どもたちが頑固に見えます。要するに、強固にしてぶれないのです。「テコでも動かない」有り様です。

一方で、このような体験をしている子どもたちは、豊かな人間になるのではないかと感じるのです。どうしてかといえば、親御さん、大人たちが子どもたちのこの状態、様子をどのように見ているのかにかかるのですが、わたしには、子どもたちが安心しきっている証拠なのではないかと思えるからです。

単に、「うちの子はわがままで、・・・」で済ますことなく、大きく変化していく分かれ目であると認識するほうがまともであると思います。「たかが子ども」ではなく、「されど子ども」のよさと強さを感じるのです。わたしたちの心の中に湧き起こる思いは、表面上のもろさ、弱さとは裏腹に、強靭な様を呈してくれます。ここに本当の強さがあるのではないでしょうか。

わたしたちの「力強さ」にはいろいろあります。権力者の強さ、地位から来る権力の強さなどは、得てして自分勝手な望みを満たすために弱者をいじめてしまう感が強くはないでしょうか。やさしさのない権力は、どうみても歓迎されません。もちろんそうでない人もいます。

ところが、愛に裏づけされた権力は、みなに安心感とゆとりを与えてくれます。落ち着きを提供してくれます。だから、居心地がいいのです。動きたくないのです。テコでも動かない強さが育ってきます。人が大きくなります。豊かになります。

メシアの力強さはここにあります。「神は羊飼いのように、羊の群れを養い、み腕で集め、小羊を胸に抱き運び、母羊をやさしく導かれる」(イザヤ書40章11節)と、イザヤは語ります。羊飼いは、羊たちにとっては愛情深い存在です。気ままな羊たちのために、忍耐強く草のあるところを求めて歩き、守り続けます。

この姿が、メシアの姿でもあります。
欠点だらけの人間、身勝手なわがままで罪をすぐに犯してしまうわたしたちをゆるし続けるのです。わたしたちのみじめさをすべてその身に負い、それでも、わたしたちを愛し続けてくださるのです。

ここに本当の力強さがあるのではないでしょうか。だからこそ、わたしたちは安心してぶれないのです。ここに、また、人の真の成長もあります。