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年間第13主日:祈りは自己をさらけ出して、膝まづくことから

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年間第13主日(B年)の説教=マルコ5.21~43

2012年7月1日

主との出会い

昔から「地位は人を作る」といわれてきました。職業や社会的な地位は、そこについた人をふさわしい存在にするものだということのようです。人間が社会を作り、そこで生活をしている限り、社会における高い地位はその人に大きな役割と影響を与えます。昔の日本は、身分や職業が固定的であったので、身分制度が崩壊し職業選択の自由が実現した近代以降に生まれたことわざでしょうね。

いずれにいたしましても、人はその生き方の中で品位が問われることが多々あります。しかし一方で、その品位がその人をその人「らしく」させない、逆の方向に、その生き方を誘導することがありはしないでしょうか。一般にいう「面子丸つぶれ」というものです。品位の高い職業に就いているばっかりに、それより下等(?)な言動ができない、ということです。人間の世界では得てしてありがちなことです。本当のその人ではない、ある地位にあるその人が独り歩きさせられてしまうのです。

人間に愛情がある限り、大事な、愛する人に何か不幸なことが迫ってくると、心配ですし、それからの脱出を願ってあらゆる手を打ちたくなります。そのことをその地位がゆるさない時ってありはしないでしょうか。特にかかわりの深い家族、中でも子どもたちへの思いは、親としてはたまりません。そうした苦悩の中では、その人の「らしさ」がまともに出てきます。

それが今日のヤイロの話の中に見ることができます。辛さ、苦しさ、不安を乗り越えて、その奥にある温かさ、癒し、安心感に触れていくのです。相手がイエスさまだからできたことです。わたしたちの日常でも、このプロセスを感じることができれば何と力強いことでしょうか。今のわたしは心からこのことを願っています。

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ヤイロは会堂の司と書かれています。娘との関係では、その地位に関係なく、父親としての振る舞いが主役です。普通ですと指導者的な活動をしてきたのでしょうが、今日は違います。大事なものへの優先順位があります。地位よりも娘への愛です。命へのこだわりです。そのために己をさらけ出してまでも、膝まづくのです。わたしたちも同じではないでしょうか。祈りはここから始まります。

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