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年間第33主日:「選ばれた人たち」にとって死は滅びではない

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年間第33主日(B年)の説教=マルコ13.24~32

2012年11月18日

主との出会い

今月は「死者の月」として、亡くなったかたがたを思い起こし、祈るようにと教会は勧めます。とかく、カトリック信者は亡くなった人を大事にしない、と言われているようですが、・・・。

事実、先日あるラジオ番組の中で、そのようなことが放送されていたそうです。しかも、外国から入ってきた宗教なので、と言われていたようです。反論の訴状を書こうかと思ったくらいです、とある信者さんがおっしゃっていました。でも、教会は毎日ミサの中で、死者のために祈りをささげているのです。

わたしたちはみな、死と向きあわなければいけないときがきます。その「時」とはどんな時なのでしょうか。今日の福音によりますと、「人の子が到来する」時なのです。イエスさまがわたしたちの罪のためにご自身をささげ、わたしたちはもはや罪を贖うための供え物をささげる必要のないイエスさまの恵みの時なのです。

そして、その時が裁きの時であるなら、いつどのような形でやってくるのか、絶えず死の訪れに怯えながら生きることになります。完全な人間はどこにもいないからです。それでも、わたしたちが「選ばれた人たち」の仲間に加わることによって、恵みの時を享受できます、とイエスさまはわたしたちを招かれます。

不完全ながらも、神への信仰を持ち続けることによって、「選ばれた人たち」の仲間になっていくことができるのです。そのような人にとって、終末・「人の子の到来」は苦難の時であっても、滅びの時ではありません。むしろ「救いの時」です。

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それは不安な、怯えながら待つ時ではなく、熱心に、期待しながら待つ時なのです。それは、「今日」という日を目覚めて生きることの先にあります。「終わりの時」が今から始まっているのです。「終わり」はまったくの最後ではなく、新たな始まりの時であります。だから、「今」ここで集中して生きることができる理由があります。

「普通に生きること」がいかに大事であるか、結局はこのことをイエスさまはわたしたちに今日、訴えたいのではないでしょうか。

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